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出门在外也不愁铃木贞美&清华讲演稿
&10月27日,铃木先生即将在清华外文系作学术报告,为有助于听讲者更好地理解讲座内容,征得铃木先生的同意,事先刊出讲演稿。需要提醒的是:此文是未发表文章,仅供参考,不得转载!
北京清華大学講演()
日本近現代思想文化史を再編する――「近代の超克」思想の展開
&&&&&&&&&&&&&
 国際日本文化研究センター() 教授 鈴木貞美
1、何を検討すべきか
 「近代の超克」は、古くて新しいテーマである。なぜなら、今日の、人類は、西欧近代が盛んにした自然征服観に立って、地球自然の枯渇、地球環境問題を招き、自分で自分の首を絞めつつある。人類は自然環境なしに生きられず、他の生物とともに生き延びるしか道はないことが明らかにされ、国際的に合意されているにもかかわらず、依然として、それに歯止めがかかっていない。人類が生きる目的と手段をどのように転換すべきか、それを、より明らかにするためには、過去の西欧近代を超えようとした思想についての反省を避けて通ることはできないからである。
日本においては第二次大戦期に、「近代の超克」が唱えられた。それについては、これまで主に、文芸批評家、河上徹多郎が主催した『文学界』「知的協力会議 近代の超克」座談会(1942年7月開催、9、10月号掲載,
単行本, 創元社、1943)がとりあげられてきた。第二次大戦後,
竹内好「近代の超克」(1959)が「大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義戦争であった」と述べる際に、それをとりあげたからである。
だが、それ以前に、「近代の超克」思想については、丸山真男「日本の思想」(1957)が論じていた。そこでは「一家一村『水入らず』の共同体的心情あるいはそれへの郷愁が、巨大都市の雑然さ(無計画性の表現!)に一そう刺戟され、さまざまなメロディーで立ち現れる『近代の超克』の通奏低音をなす」と述べられている。通奏低音は、変わらずに続く和音の最も低い音をいう。上の音が変化することでメロディーが変わる。農村の「共同体的心情ないはそれへの郷愁」が「近代の超克」思想の根底を流れているという意味である。丸山真男は、「近代の超克」の発生を、明治期の欧化主義とほとんど同時に登場すると述べている。なぜなら、すでに西欧近代が「危機」を招いていたからだといい、例として岡倉天心『日本の目覚め』(1904)から「冨の偶像崇拝」におちいった西欧の現実を告発する文章を引用している。西欧近代を日本ないしは東洋の伝統精神で撃つ思想に、丸山真男ほど敏感な思想家はいなかったかもしれない。
これまで、これら第二次大戦期の「近代の超克」思想、それを論じた戦後の思想について、統一的な視点から検討した研究はなされていない。ここで、それを試みてみたい。それは日本の近現代思想史について全面的な見直しを行うものとなるだろう。
『文学界』座談会は、当時、第一線で活躍中の多士済々のメンバーを集め
(『文学界』周辺の文化人として、小林秀雄、林房雄、三好達治、中村光夫、音楽家の諸井三郎)、『日本浪曼派』グループから亀井勝一郎、学派(仏教哲学者?西谷啓治、西洋史学者、鈴木成高、科学史家、下村寅太郎)、物理学者、菊池正士(せいし)、カトリック神学の吉満義彦、映画界から津村秀夫)
、あらかじめリポートを提出させた上で会議を行った。
この会議は、河上徹太郎が、1933年から国際連盟知的協力委員会の中心人物として活躍していた詩人で批評家のポール?ヴァレリーに対抗して――河上は単行本『近代の超克』の「結語」にヴァレリーの名前を出し、非難している――、対米英戦争に突入して7ヵ月後の日本の文化を「近代の超克」ということばでくくり、対外的に発信しうる思想の内実をつくることを狙ったものだった。河上は、会議を次のことばではじめている。「12月8日以来、吾々の感情というものは、茲(ここ)でピタッと一つの型に決まりみたいなものを見せて居る。この型の決まり、これはどうにも言葉では言えない、つまりそれを僕は『近代の超克』というのですけれども」。集まったリポートは、あまりに内容が多岐に渡り、まとまりがつかなくなることは予測できた。文化の歴史性と永遠性、精神と機械、宗教性、弁証法的論理など重要なテーマを設定して進めたが、河上徹太郎が単行本の「結語」に「会議全体を支配する異様な混沌や決裂」と記しているとおりのものになった。反響もほとんど見当たらない(単行本初版6,000部のみ確認)。当時の知識人たちの意見の方向があまりにまちまちであったという以外に、今日でも、内容を細部にわたって検討する価値があるとは思えない。
ただ、若手の文芸批評家、中村光夫が軍国主義に同調する発言を一切しておらず、そこに提出したリポートの「近代への懐疑」というタイトルを敗戦後の彼の評論集のタイトルに用いたため、リベラルな態度を貫いたとして注目され、高く評価された。それは、中村光夫を文芸批評の主流のひとりにおしあげる役割をはたした。座談会の席で中村光夫は「西洋にも伝統がある」と述べている。当たり前のことのようだが、つい最近まで、科学を標榜するマルクス主義に立っていた林房雄や亀井勝一郎らが、「西洋」といえば近代科学思想と考え、それを日本の伝統精神によって非難している構図に疑義を提出したものだった。
『文学界』の会議が討議に入ったところで、まず鈴木成高が現下の戦争は「近代の超克」戦争と考えられると述べている。が、その性格規定について論議はなされなかった。すでに2回、学派の俊英たち、高坂正顕(こうさかまさあき)(哲学)、西谷啓治、高山(こうやま)岩男(文化哲学)、鈴木成高の4人は、総合雑誌『中央公論』で「大東亜戦争」について座談会を行っていた。その第1回「世界史的立場と日本」は、日、まだかなり多くの国民が、対米交渉がうまくゆくように願っていた開戦直前に行われたもので、緊迫する世界情勢に対して、世界史の進路を変えるよう、日本は行動すべきだと訴えている。この座談会が翌1942年1月号に掲載されると、開戦(日)を予言したかのように言われ、第2回の「東亜共同圏の倫理性と歴史性」(1942年3月、『中央公論』4月号)もかなり注目された。そこで連発された「モラリッシュ?エネルギー」の語は海外の日本人のあいだでも流行した。たとえば、遅鏡誠「十二月八日の倫理」(「満洲国」日本語総合雑誌『藝文』1942年12月号)がそれを語っている。
第3回座談会「総力戦の哲学」(1942年11月号)は、「大東亜共栄圏」を実現する戦争という意味で、「聖戦」「皇戦」の語が飛び交う。単行本『世界史的立場と日本』は、1943年3月刊行(初版15,000部、第2版同年8月、10,000部を確認)。
戦時期の「近代の超克」思想の内実については、この『中央公論』座談会を検討すべきだろう。そこでは、文化多元主義の立場から、帝国主義に反対し、日本の家族国家論をアジアに拡大するような主張が見られ、また「生々発展」する歴史観によって、対中国戦争が対米英戦争を準備するものだったという歴史的過去の再解釈が行われている。
丸山真男「日本の思想」は、天皇に至上の価値が置かれ、そこに責任がゆだねられるために個々人が責任をもたない精神構造を指摘し、権力機構が家父長的ないしは「情実」的人間関係、すなわち「共同体的心情」を吸い上げ、調整することによって保たれるしくみを関連づけて説いた論文である。日本において「思想が対決と蓄積の上に歴史的に構造化されない」ことが「伝統」になってきたこと、様ざまな思想の断片が雑居しており、「伝統」思想の「ズルズルべったりの無関連な潜入」が絶えず行われることも指摘している。
この論文「日本の思想」は、日本人の行為の主体としての弱さを、また各専門が蛸壺のようになり、議論がオープンに行われないことを鋭く批判するエッセイとともに、『日本の思想』(岩波新書、1961)に収められ、戦後民主主義を代表するものと考えられてきた。
本論考では、まず(2)「大東亜戦争」の理念を明確にする。「大東亜共栄圏」構想は、1938年11月の第1次近衛文麿の「東亜新秩序建設」声明が、その端緒になったことは、今日、定説である。それを支えたのが昭和研究会の「東亜協同体」論であり、その形成過程を明らかにする。(3)『中央公論』座談会の文化多元主義と「生々発展」する歴史観について、先の「東亜協同体」論とのちがいをふくめて明らかにする。(4)『文学界』座談会は、なぜ、混乱に陥ったのか、また、リベラリズムを貫いたとされる中村光夫の思想の内実は、どのようなものだったのか、中村が問題にしている「西洋近代」対「伝統」という図式は、どのようにして形づくられたか、1930年代後半における自由主義者やマルクス主義者たちの思想転向の核心について明らかにする。
最後に、(5)第2次大戦後の「近代の超克」論とその周辺、および丸山真男の日本近現代史観について批判的に検討し、日本の「近代の超克」思想の「基調低音」というべきものが、生命原理主義であったことを明らかにする。生命本位の思想は今日、われわれに課せられているものであり、日本が陥った「近代の超克」思想は、その失敗した先例であることが明確になるだろう。なお、「付」として、丸山真男「歴史意識の『古層』」(1971)が、生物進化論が中国では革命的な役割を果たしたのに、日本では、そうならなかったのはなぜか、という問題設定を行っていることについて検討を加える。そこでは厳復『天演論』を取りあげる。そして、実は、真山真男が、その「基調低音」の上で、新しいメロディーを奏でてしまったことを明らかにし、生命主義の歴史観の根強さに対する警鐘とする。
2、「東亜協同体」論の理念
2-1、近衛文麿「東亜新秩序」声明
1941年夏、第2次近衛文麿内閣の外相、松岡洋右が打ち出した「大東亜共栄圏」構想は、その後、東条英機が軍服を着たまま独裁的な権力を掌握する軍国主義体制(陸?海軍間の角逐は別にして)に移行し、アメリカとの交渉が決裂し、12月8日の真珠湾攻撃、開戦宣言にいたる。その構想の端緒は、泥沼化した日中戦争を打開するために、第1次近衛文麿内閣が1938年11月に出した「東亜新秩序」声明にあった。11月3日に近衛文麿首相が日満支三国の「互助連携、共同防共、経済結合」をうたう「東亜新秩序声明」を出し、12月22日には、1938年1月に出した蒋介石国民党政権を「対手とせず」という声明を撤回し、国民政府との和平三原則として「善隣友好」「共同防共」「経済提携」をうたう「日華国交正常化大綱」を発表した。実際の戦局の上では、英米ソの支援を受ける蒋介石国民党政権に対して、北京の王克敏親日政権(1937年12月成立)と結び、古くからの中国革命運動の活動家、汪精衛(兆銘)を担ぎ出し、南京に臨時政府を樹立(1939年9月)、中国大陸の「和平地区」を拡大してゆく路線を決定したものだった。それが「大東亜共栄圏」構想に至るまでには、ソ連を共通の敵国とする日独伊防共協定(1937年)が1940年に三国同盟の締結に進み、独ソ不可侵条約の締結(1939年、1941年6月破棄)、フランスがドイツに敗れ、宗主国を失ったヴェトナムへ日本軍が進攻(1940年9月)、日ソ中立条約の締結(1941年4月)などなど国際情勢の変化や、第1次近衛文麿内閣の退陣(1939年12月)、戦争経済の逼迫など国内事情のさまざまな曲折があることはいうまでもない
1938年11月の近衛文麿声明は、侵略戦争の継続を名目の上で、糊塗するにすぎないもののように見られてきたが、それまで、国際的に意味のあるものとしては「防共」の一点張りだった対中国戦争のスローガンに、西洋帝国主義から中国を解放するという戦略を加え、それまで、「皇軍」の行う戦争という意味で飛び交っていた「聖戦」の語に、ひとつの方向を与え、その後の日本の進路を決定する大きな戦略転換だったことはまちがいない。その声明を受けて翌1939年早々、近衛文麿のブレーン?トラスト、昭和研究会は、パンフレット『新日本の思想原理』を発表する。「東洋の統一を実現することによって真の世界の統一を可能ならしめ、世界史の新しい理念を明らかにする」ことが「支那事変の世界史的意義」だと説き、「世界の新秩序の指標となるべきもの」として「東亜協同体」の建設をうたう。「日本が欧米諸国に代わってみずから帝国主義的侵略を行うというのであってはならぬ」とある。アジア民族の運命共同性を説き、東洋文化の伝統保守などによるブロック建設を内容とする。そして、1939年には、石原莞爾が匿名で、より緩やかな「東亜連盟」論を唱えるなど、ジャーナリズムが賑わうことになる。
そして、これによって、日本の覇権主義や帝国主義に反対する言論が検閲を通るようになった。日中戦争勃発後、1937年10月ころまでは、ジャーナリズムに和平の早期実現や排外主義に反対するなど何らかのかたちで戦争に反対する意見表明が見られる。だが、12月から翌年1月にかけて、反戦、反ファッショ運動を企てたとして、労農派の学者、活動家、400人あまりが逮捕され(人民戦線事件)、軍国ムードを揶揄する石川淳の短篇小説「マルスの歌」を掲載した『文学界』1938年1月号(日納本)が発禁処分を食らい、厭戦、非戦の表明が完全に抑えこまれた。しかし、たとえば、武漢攻撃(1938年秋)に、新聞記者として従軍した井上友一郎が、そのルポルタージュに自分の感想を交え、「私小説」にしたてて刊行した『従軍日記』(1939)という書物がある。小説の語り手は中国民衆を戦争の犠牲者として書く立場を明確にしており、その付記「従軍覚書」(1938年11月の日付をもつ)には、対中国戦争はアジアの「大救済事業」である、アジアの苦しみとは無縁なイギリスやフランスとことなり、日本の手によってこそ中国人の「生活の基準」の建てなおしが行える、と述べたのち、日本軍が占領した南京で、特務機関により、中国の伝統演劇の上演が保障されているのは好ましいことと述べ
(南京虐殺事件ののち、それ以上、民衆の反発を招かないための措置だったにちがいない)、戦争終結後に日本人は中国から引きあげるべきだとも述べている。
そして、西欧帝国主義に対する東亜ブロック建設論は、左翼のなかにも一定程度、浸透した。宇野弘蔵(労農派)は、勤めた研究所が台湾の製糖産業について行った共同研究(1945)で、平野義太郎(講座派)は『大アジア主義の歴史的基礎』(1945)序文で、それぞれに立場は異なるが、マルクス主義の立場を保持したまま、東亜ブロック経済圏の形成を唱えている。
2-2, 三木清の東亜協同体論
近衛声明以前に、昭和研究会の蝋山政道「東亜協同体の論理」(『改造』11月号、10月下旬刊行)が、その具体案を示したことが知られている。東アジアのブロック経済建設、職能集団を基礎単位とすることなどの制度面を論じるもので、理念としては「東洋の地域的民族協同体の理論は正に民族と大地とから生まれてきた」と述べているにすぎない。のち、蝋山政道「大東亜建設の原動力」(『満洲公論』1944年4月号)は、大東亜共栄圏を「北方圏」と「南方圏」のふたつに分け、北方圏のモデルを「満洲国」とし、南方圏についてはまだ標準が定められないとしながら、フィリピンについてだけ述べている。「満洲国」の総合雑誌からの依頼に応えたものだが、それによって主張の内容が変わるわけではあるまい。1938年には、日本軍が東南アジアに侵出することなど誰も想定していなかった。この論文は、蝋山の「東亜協同体論」が当初から「満洲国」の「民族協和」政策を念頭において構想されたことを物語っていよう。
では、その「東亜新秩序」の理念は、どのようにしてつくられていったのか。昭和研究会のパンフレット『新日本の思想原理』(1938)をまとめたのは、かつて西田幾多郎の門下から出て、マルクス主義の論客として鳴らした三木清だった。1938年の三木清について足跡を追ってみよう。
 三木清は「知識階級に与う」(『改造』1938年6月号)で、「起こってしまったことをとやかくいってもはじまらない」、日本の歴史に「理性」に立つ大義を与えよ、そのために知識人は政治参加すべきだと論じた。現に進行しているクレイジーな戦争に「理性」を付与するために知識人が起て、と呼びかけたのである。そして、近衛文麿のブレーン機関「昭和研究会」(1936年11月正式に発足)に招かれ、三木は「資本主義の弊害の解決」「東洋の統一と調和」「侵略戦争になることを極力防ぐこと」を訴える講演を行い、その常任委員になった。なお、それ以前、明治期からのジャーナリズムの大御所、徳富蘇峰は、『皇道日本の世界化』(1938年2月刊行)で、「支那事変」が起こってしまった以上しかたがない、これを「皇道世界化の機」「白禍一掃の運動」にせよ、反共産主義を第一に掲げ、次いで反アングロサクソン戦争に進むべきだと訴えていた。1937年7月に始まる「支那事変」の国家目的が明確になっていないことは、日本の知識人にとって「常識」だったのである。
そして、三木清は「われわれの政治哲学」(英文、『文藝春秋』欧文付録『Japan
To-day』10月号)で、資本主義の弊害を解決するために自由主義、ファシズム、共産主義が互いに争う国際情勢に対して、東亜ブロック建設を訴えた。彼自身の「マルクス主義の経験」に立ち、かつ、ヨーロッパの人民戦線派からナショナリズムを超えるヨーロッパ共同体(European
Community,
EC)の提案がなされていることをも踏まえたものだろう。そして、おそらく10月のうちに、三木清は講演「政治と文化」(『戦時文化叢書』日本青年外交協会、1938年11月刊)で「東亜協同体」の語を用いはじめる。そこでは、それぞれの民族や国家の独自性や自主性を保証すること、「協同体」の全体の全体主義ではないことなどを論じている。これらが東亜協同体論の基本理念と言ってよい。
ただ、昭和研究会のパンフレット『新日本の思想原理』には、「一君万民の世界に無比なる国体」の語が見える。これは三木の思想にはないものである。パンフレットのまとめ役として入れざるをえなかったと推測されている。近衛文麿を支える勢力のもう片方は、国家革新を唱え、1936年に5?51事件、1937年に2?26事件を起こした皇道派にあった。
その後、三木清は、東亜協同体の理念を建てた経験をもとに、歴史を導く哲学的構想力について『構想力の論理第一部』(1939)をまとめる。彼は、西田幾多郎を尊敬し、その哲学を批判的に乗りこえることを最後まで志していた。だが、1945年3月、三木が共産党系活動家と関係が続いていることを、逮捕された活動家が告げたため、治安維持法違反のカドで逮捕、投獄され、獄中で全身を疥癬に冒され、敗戦直後に死んでいった。
敗戦後から今日まで、個々の立場や主張を度外視し、「戦争に協力したか、抵抗したか」という二分法が幅をきかせてきた。それによるなら、三木清も侵略戦争の加担者となる。三木清の活動は、左翼用語でいえば「加入戦術」にあたるが、それは、日中戦争の泥沼に、かろうじて「反西欧帝国主義」の旗を掲げさせるところまで漕ぎつけたといえるかもしれない。だが、軍国日本は、国際的にはファシズム?リーグの一翼を確実に担っていた。その進路に隘路をうがつような三木清の努力は、ついに報われることはなかった。
三木清「現代日本に於ける世界史の意義」(1936年6月)は、ドイツの哲学者、テオドール?レッシングの『』
(1919)の題名を引いている。このころから、三木清は歴史への積極的な参与を考えていたかもしれない。同時に、この「歴史とは無意味なものに意味を与えることだ」ということばは、歴史を書くのは常に勝者であるという苦い認識に裏うちされていたことを、十分、承知していたはずだ。実際、日本の戦時下にも、また戦後にも、「勝者の歴史」に従う人々が圧倒的多数だった。
3、『中央公論』座談会『世界史的立場と日本』
3-1, その内実
『中央公論』座談会第一回「世界史的立場と日本」では、ドイツの歴史学者、レオポルド?フォン?ランケが歴史の推進力として説いた「モラリッシュ?エネルギー」を「道徳的生命力」と翻訳、日本のそれが溌溂としていることが説かれる。そして「例えば、満洲事変というものでも、それが起った当時よりも支那事変を経過した後のいまの方が、その意味がずっとはっきりしてきている」と述べられている。これは、対中国戦争の戦略が「東亜新秩序建設」へ転換し、「大東亜共栄圏」構想に至った過程を明確に示している。
第二回「東亜共同圏の倫理性と歴史性」では、「大東亜戦争」こそ、西洋帝国主義の世界制覇に対する「アジアの覚醒」であり、アジアがこれまでヨーロッパ中心に書かれてきた世界史上にはっきりと、その姿を登場させるものであり、「近代の超克」戦争であると論じられる。一層、モラリッシュ?エネルギーが強調され、それを創造した日本の「生命力」が謳歌される。国際的な相互性の尊重の立場から、帝国主義もソ連もファシズムも西洋の「力」の論理であると否定し、ドイツの文化、オスヴァルト?シュペングラー『西洋の没落』(Oswald
Arnold Gottfried Spengler. Der Untergang des Abendlandes,
)などを参照して、世界史の多元的構造論、文化多元主義の立場を明らかにし、民族主義に対しては、広域圏の考えを対置する。ここで「近代の超克」戦争とは、西洋列強の帝国主義を超える思想である。
そして、の(1940)に登場した「八紘一宇」を東洋的な「天」や「家」の論理と結びつけ、具体的には、日本を父親の位置におき、家父が「指導」するひとつの家族共同体のイメージを説く。これは「国民は天皇の赤子」であり、日本の国家は一大家族と唱える家族国家論を東アジアにひろげて考えるもので、侵略先の各地で容易に受け入れられる考えではない。日本人に「自覚」を呼びかけ、戒めることばもそこここで吐かれているが、全体としては、対米英戦争の勝ち戦に乗じて、あたかも日本民族の「歴史的生命」が、その使命の実現に向かって進んでいるかのように描きだすものだった。それによって、対中国戦争は、あたかも「大東亜戦争」の準備のためだったかのように正当化される。
第3回座談会「総力戦の哲学」では、歴史の創造性には「飛躍」や「不合理性」が含まれるとし、ベルクソンの「エラン?ヴィタール」の語も登場する。「民族の生命」のようなものを想定し、その歴史が「生々発展する」と考える歴史観は、すべてのことについて、もともとあった芽が成長したかのように考えてしまう。三木清は、進行中の歴史に新たな意味を付与することを唱えたが、この座談会は、過去の歴史に新たな意味を付与している。
彼らが文化多元主義を主張しえたのも、1920年代に入ると帝国主義の時代は終わったといわれ、アジアにも民族自決権、文化相対主義がひろがり、日本は、台湾、朝鮮半島では強権政治を「文化政治」に転換したことなどがもとになっている。そして、先に見たように「東亜新秩序」や「大東亜共栄圏」構想は、「満洲国」における「民族協和」政策をアジア太平洋圏に拡大するものだった。
満洲事変を起こした関東軍は、当初は占領方針だったが、参謀、石原莞爾が1931年暮に「建国」に切り替えたと、協和会の古参幹部は証言している(座談会「大東亜共栄圏確立の原理」『文藝春秋』1942年2月号)。「満洲国」建国(1932年2月)は、軍閥、張学良に叛旗を翻した者や旧清朝帝政派のあいだにあった「独立」の機運に乗じたところもある。まがりなりにも「独立国」とし、「王道楽土」「民族協和」をうたった。「覇道」(権力主義)ではないという意味である。政府要人に中国人を据えるが、溥儀(執政、翌年、皇帝)の首根っこを関東軍が抑え、中枢は日本人官僚が握るしくみの傀儡政権である。人口比率からしても、そうしなければ統治ができなかったし、少しでも国際的な非難をかわそうとしたことも手伝っている。「国語」は、中国語(満語)、日本語、ところにより蒙古語とし、亡命ロシア人地区ではロシア語教育も行われ、ソ連で抑圧されているロシア正教も活動させた。人口の多い漢民族より、少数民族を優遇して協力させるのは台湾統治でとってきた政策であり、亡命(白系)ロシア人を優遇するのは、「満洲国」がソ連と対峙する戦略地域だったから、当然の政策だった。とくに、重工業を重視した満洲国五カ年計画を担い、「日満一体化」を進めた岸信介ら中央官僚が内地に召喚されて(1939年秋)以降、「建国」時から活動してきた半官半民組織、協和会が息を吹き返し、「民族協和」の内実づくりに力が入った。華北を日本軍が抑え、開発にいそしむようになると、中国人労働者の流入が減り、「満洲国」の鉱工業の労働力の供給源として疲弊しきった農村を立てなおす必要に迫られていた。対米英戦争に突入すると、「満洲国」は兵站基地の役割を担い、食糧の増産が必須となった。関東軍報道部中佐、長谷川宇一も「大東亜共栄圏の模範たれ」と掛け声を発している(座談会「「決戦文芸の途(みち)」『藝文』1942年4月号)。
だが、他方、台湾、朝鮮半島では、1938年ころから、総力戦体制づくりのため、逆に、創氏改名や官公庁、学校で朝鮮語使用を禁止するなどの皇民化政策が強力に進められた。自国の領土内では、多文化的状態を解消する方向の政策を進めていた。
3-2, 事後的解釈
これに類する事後的解釈は、大英帝国の東アジアへの侵出基地、香港とシンガポールを陥落させたとき(1941年12月)から、ひろがっていた。「満洲国」では、関東軍関係者が満洲事変と満洲「建国」が「大東亜戦争」の準備だったと語りはじめた(座談会「建国を語る」『藝文』1942年3月号)。自分らの方針が正しかったことが、これで証明されたという「建国組」の快哉である(一時期、参謀長として赴任した東条英機は「民族協和」をないがしろにし、参謀、石原莞爾と対立、ふたりの反目がはじまったともいわれる)。
さらに遡って、日露の両戦争も、今日を準備する歩みであったと語られる。日露戦争の停戦時に、アメリカが提案した南満洲鉄道(満鉄)の共同経営案を小村寿太郎が敢然と蹴ったことによって、対米英戦争に向かう道が決まったかのような議論さえ飛び出した(森一樹「満洲と小村壽太郎」『藝文』1943年8月号)。いかに対米英戦争を優位に進めていたときの「勝者の歴史」とはいえ、あまりに拡大解釈なのは一目瞭然だろう。ポーツマス条約の全権、小村寿太郎が、樺太の南半分の割譲だけでロシアとの停戦協定に手を打ったのは、背後で日英同盟の強化を進め、アメリカも朝鮮を日本の保護国にすることを事前に承認していたからである。それがあればこそ、1910年の「日韓併合」へ進んだのである。
菊池寛『満鉄外史』(満洲新聞社、上巻、1942)も、満鉄の創立期、後藤新平や、とくに中村是公の功績をうたい、「大東亜共栄圏」を切り開くものだったという意味のことを記している。第1次世界大戦で「自由主義陣営」についた日本が国際連盟の常任理事国となり、国際協調路線をとったことも、「防共」の旗を掲げて中国大陸に支配地を拡大してきたことも、やがて米英と戦うという本心を隠したマヌーバー(政治技術)だったことになる。
こうした歴史の事後的解釈のすべてが、「生々発展する」歴史観の働きによるものではないが、1935年を前後する時期に、哲学や歴史学に、ドイツの哲学者、ヴィルヘルム?ディルタイ(Wilhelm
Christian Ludwig
Dilthey,)の説いた生成展開する歴史観、いわゆる歴史主義のブームが、昭和戦前期の若い知識人たちにとりついていたマルクス主義が説く「歴史の法則性」(封建制‐資本主義‐社会主義への発展段階論)にかわる論理を提供したことはまちがいない。
3-3, 西田幾多郎『日本文化の問題』
学派の俊英たちは、西田幾多郎の説く「私と汝」の対等関係の論理を援用して、文化多元主義の立場を説いているが、この日中戦争の事後的解釈は、権力間の闘争を否定する西田幾多郎を裏切っている。西田幾多郎が、1938年から大学行った講演をまとめた『日本文化の問題』(1940)は、「生生発展」をキーワードに、日本の「歴史的生命」なるものを論じている(西田のディルタイ哲学の受容は明治期からうかがえる)。「歴史的生命」とは、普遍的、抽象的な「生命」(宇宙生命)が、歴史のうちに自らを表したもの、歴史を動かす根本的なものをいい、歴史の現実、すなわち権力争いの場を超えたものとする。日本では、「天皇」ないしは「皇室」がこれを具現し、そこに日本文化の独自性があるという。「歴史」を「宇宙生命」の歴史へのあらわれである「歴史的生命」と「歴史の主体」すなわち権力のふたつの水準に分けて考え、「皇道」を、権力を超えたものとし、皇室を仰ぐ日本が「覇道」や「帝国主義」に陥ってはならないという。他国への侵略は、権力を超えている(はずの)皇室を権力にしてしまい、汚すことになるからである。「最も戒(いまし)むべきは、日本を主体化することでなければならないと考える。それは皇道の覇道化に過ぎない、それは皇道を帝国主義化することに外ならない」。
これは、岩波新書の一冊として刊行され、かなり多くの知識人に読まれたはずである。平和主義天皇制論は「満洲事変」以降、中国大陸で展開している事態に対して、当時、唯一可能な反対表明の仕方だった。三木清の主張も、この反帝国主義の主張に同調したものだっただろう。西田幾多郎は昭和研究会でも講演している。
だが、「天皇」が権力を超えた存在であるというのは、歴史の偽造にほかならない。「天皇」という称号は、聖徳太子を摂政とし、自らは不執政の座についた推古女帝(在位592?628)のときに、それまでの「大王(おおきみ)」にかえて用いられたものといわれ、天界のもろもろの星の中心に位置し、自らは動かない北極星を指すという。その意味では権力を超えた存在といってよい。だが、壬申(じんしん)の乱(672)、保元(ほうげん)の乱(1156)、承久の乱(1221)、建武の新政(1333?69)とそれにひきつづく南北朝の争乱など、天皇ないしは上皇が直接かかわった内乱の例には事欠かない。近代では、明治天皇が日清、日露のふたつの戦争に際して、「開戦してもよい」という意味の詔勅を出している。西田幾多郎の平和への意志は、「歴史の偽造」を犯しても、「東洋平和のための戦争」という国家の「論理」を打ち砕こうとしたと考えてよい(なお、敗戦後、津田左右吉、和辻哲郎らが象徴天皇制を支える論理をつくった際にも、皇室が権力を離れた存在であることを根拠にした)。
そして、1940年に創設された神祇院の編になる『神社本義』は、次のようにうたっている。「代々天皇にまつろひ奉って、忠孝の美徳を発揮し、かくて君民一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶ゆることなき国家の生命が、生々発展し続けている。これが我が国体の精華である」と。まるで明治中期の帝国憲法制定期に加藤弘之が説いた家族国家論に、西田幾多郎の説く日本の「生々発展する歴史的生命」を統合したようなものである。
なお、この歴史観は、敗戦後にも影を落とした。坂口安吾「堕落論」(1946)は、虚脱の淵から抜けだしたとたん、かつての倫理をかなぐり捨て、生きることのみに懸命な世相を前にして、「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」と述べたことでよく知られる。お国のためにいのちを捧げる覚悟で戦地へおもむいた人びとが敗戦後、帰還して、闇屋になるのも、戦争「未亡人」の心に新しい恋が芽ばえるのも、それが自然、それが人間というもの、それでよいのだと。そこには、こうも記されている。「この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、然(しか)し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったにちがいない」。その直前には「政治の場合に於て、歴史は個をつなぎ合わせたものではなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し」云々とある。民族の生々発展史観は、敗戦後も生き延びていたというべきだろう。
4、『文学界』座談会をめぐって
4-1, 「西洋近代」対「日本の伝統」という図式
『文学界』座談会「近代の超克」は、全体に、明治以来の日本が西洋文明の移植に汲々としてきたことを反省し、機械文明の発展に対して、倫理や精神性を強調する意見が多く出ている。たとえば、亀井勝一郎「現代精神に関する覚書」(10月号)は、「共産主義の瀰漫と崩壊」の後、「日本精神」が言われても、表面的に謳歌されるだけ、この「精神の危機」「言葉の危機」は西洋の機械文明がもたらしたものだといい、言葉に宿る「無限の思い」「言霊の幸(さき)わう国」の復活を訴えている。林房雄は「勤皇の心」(1941年、大東塾の機関誌に寄せたもの)を再提出したもので、「私も左翼人の一人であった。我が罪の大きさにおののきつつ、今この文章を草しつつあるが、我が心の歴史をふりかえって、我をして左翼に到らしめた原因はいずこにあるか。(中略)それは明治中期以降の文学であった」、その「神の否定、人間獣化、合理主義、主我主義、個人主義」が「『神国日本』の否定」に帰結したのだという。三好達治は、文部省の古典尊重も牽強付会が横行していると現状への不満をぶつけるという具合だった。日本の明治期についても、1920年代からのアメリカニズムの浸透への対処法についても意見は対立し、まったく議論はかみあわなかった。
中村光夫が座談会で、「西洋にも伝統がある」と発言した。あたりまえのことのように見えるが、あまりに、西洋といえば「近代」と決めてかかり、それに「日本の伝統」を対置する論調が強かったからである。座談会の参加者たちは、若くして西欧の思想や文芸、あるいはマルクス主義の洗礼を受け、1930年代半ばころまで「近代化すなわち西洋化」の図式で伝統主義に対峙しようとした人が多かった。その図式を軸に姿勢を反転し、「西洋近代」に対して伝統主義に立とうとした。そのため、反省すべき「近代」も見いだすべき「伝統」もまったくまちまちだった。それらは、戦後にも何度も蒸しかえされ、同じように混乱した論議が繰りかえされてきたといってよい。
では、「西洋近代」対「日本の伝統」は、どのようにして出来たのか、彼らは、その上でどのように伝統主義に立場を転換していったのか。戦前、戦後を通じて「昭和」という時代を代表する文芸批評家、小林秀雄を例にとって考察する。
4-2, 小林秀雄の場合
小林秀雄は「故郷を失った文学&#6)で、「近代化という言葉と西洋的という言葉が同じ意味」だといい、「明治以来の西洋化」という考えを披歴している。明治期からを「近代」と言い習わしたのは、1920年代半ばからのマルクス主義者たちであり、それは資本主義を指標にするものだった。小林秀雄も、それを受けとったにちがいないが、小林がいっているのは経済のしくみのことでも、物質文明のことでもない。文芸など精神文化のことである。明治維新で、日本神話に記された神武天皇の即位の日をもって建国記念日にあたる紀元節をつくり(1872年)、鹿鳴館に代表される欧化政策を改め、帝国憲法を制定し、教育勅語を出して(1890年)、万世一系の天皇制をうたい、20世紀に入ると、東洋と西洋の調和が唱えられたことなどまるで無視している。1910年代に産業構造が変化し、庶民生活まで様替わりを見せ、1920年代に大量生産方式と大衆文化が進展し、マルクス主義が盛んになるなど、新たな欧米化の機運が高まったことを受けて、自分たちこそ本当の西洋近代化を進めるという立場で、伝統主義の高まりに対峙しようとしたためである。「西洋近代」対「日本の伝統」という図式は、1935年前後に、小林秀雄らの世代のリベラル派がつくったものである。
日本で最初の象徴詩集とされる蒲原有明『春鳥集』(1910)の序が、芭蕉俳諧を西欧の象徴主義にあたるものと解釈して以来、象徴詩人たちが芭蕉を再評価してきた動きを、小林秀雄がまるで知らなかったわけではないだろう。文学青年たちのあいだに流行した『田園の憂鬱』(1919)ののち、佐藤春夫「『風流』論」(1924)が自我の紛糾を書く近代小説を超える境地を芭蕉に求めていたことなど当然知っていたはずである。俳諧の「伝統」など近代小説にとっては「要らない肥料が多すぎた」(「私小説論」1935)と切り捨てたのである。
小林秀雄は、左翼運動から脱落した人びとに働きかけ、文芸批評家、河上徹太郎とともに文芸雑誌『文学界』を軌道に乗せ、文壇の中心勢力に押し上げいった。『文学界』は、かなり長く、左翼寄りの作品も載せつづけ、それゆえ発禁処分も食らっている。この姿勢には、フランス知識人たちの反ファシズム運動の刺戟が働いていたと見てよい。フランスの作家、ロマン?ロラン(Romain
Rolland、 - )やアンリ?バルビュス(Henri
- )の呼びかけで、1932年8月、アムステルダムで国際反戦大会が開催され、1936年7月には、フランス社会党、共産党の反ファシズム統一戦線が結成されるに至っていた。コミンテルンも社会民主主義主敵論を捨て、人民戦線方式に転換した。
だが、小林秀雄は、1938年に、火野葦平に芥川賞を授与するため、中国戦線を訪れ、戦争の現実に直面し、「日本人の血というものは実に濃いものだという実感」を覚えた(「支那より還りて」1938)。
(1941)では、「唯物史観に限らず、近代の合理主義史観」も「人間が歴史をつくる」という当たり前のことを忘れていると述べ、過去の理論も「因果の鎖」も役に立たない、「僕等の自国の歴史への愛情」、北畠親房『神皇正統記』(1339,
1343)の「根本の史観」をもって現実と渡りあい、新たな日本の歴史の創造にかけることを披歴する。北畠親房は、皇統が永くつづいてきたという事実をもって、皇国史観の最大のよりどころとしている。小林がいうのは、おそらく歴史の現実を尊重する精神であろう。『文学界』同人に加わった哲学者、三木清との対談は「実験精神」(『文学界』1941年8月号)と題されている。そして、対米英戦争の開戦の報をラジオで聞いた小林秀雄は、「何時にない清々しい気持」になったという(「三つの放送」1942)。
そして、小林秀雄は、「近代の超克」座談会のころから、一方では、戦乱の時代を生きた日本人の姿を中世に探り、「当麻」(1942年7月)以下、『無常ということ』(1943)にまとめられるエッセイ群を書きはじめ、他方では「戦争には全面協力」の姿勢を固めて
(「小林秀雄を囲む座談会」『藝文』1943年8月号)、河上徹太郎とともに「大東亜文学者大会」第2回大会(1943年8月)の根まわしに働いた。その大会では、横光利一が日本の作家を代表して挨拶し、「相互の伝統の尊重」をうたい、「満洲国」を代表する作家、古丁が提案した互いの作品の翻訳が決議され、中国大陸では、ある程度、実現を見る。小林らは、さらに汪精衛南京政府を支える文化事業として企画された第3回南京大会(1944年11月)の実現に向けて積極的に働いた。小林も河上も「大東亜共栄圏」の理想に懸けていたのである。
4-3, 中村光夫の場合
二葉亭四迷を論じて批評家としてデビューした中村の立場は、西欧ロマン主義を推奨し、自然科学にもとづく自然主義リアリズムからプロレタリア?リアリズムへの流れを排撃するものだった。「近代への懐疑」とは、知識人の科学崇拝癖を撃つものだった。
ヨーロッパ自然主義(naturalism)文芸の出発点とされるエミール?ゾラの「実験小説」論(&Emile Zola, Le
experimental,1880)は、遺伝と環境の決定論によって人間の行動を描く実験をすると宣言したもので、その意味では科学主義といってよい。ただし、それはいわば文芸ジャーナリズムに対するマニフェフェストという意味合いが強い。実際の作品、たとえば『ナナ』(Nana,
1879)で、主人公の娼婦、ナナが自分に群がってきた男どもを破滅に追い込むのは、彼女の自由意志によるもの、それが社会の大変動と重ねられるので、まるで階級的復讐のように読めるのである。
日本の「自然主義」文芸のうちに、ゾラの宣言に賛同した作家も批評家はひとりもいない。島崎藤村は、ジャン=ジャック?ルソー『告白』(Jean-Jacques
Rousseau,Les Confessions, posthume,頃執筆)に感激して小説家を目指し、「自然主義」を喧伝した長谷川天渓もゾラは誤りといい、心理主義に立つことを主張していた(「不自然主義果たして美か」1902)。ゾライズムから出発した永井荷風も、ゾラの生涯を通してゾラを見ており(「エミール?ゾラと其の小説」1903)、「地獄の花」(1902)には、ブルジョワ社会の虚偽を暴く姿勢が強く出ている。日本の作家たちは、それぞれに「自然主義」の方向を探っていたのである。田山花袋「露骨なる描写」(1904)も、技巧に走る旧派ら対して「真相の暴露」を主張するものでドストエフスキー(Фёдор
Миха́йлович Достое́вский, - )を例にあげている。
これは、ゲオルク?ブランデス『19世紀文学主潮』(Hovedstr&mninger i det
19 de Aarhundredes Lieteratur, 1872-90)が、ヘンリク?イプセン『人形の家』(Et
dukkehjem,
1879)などブルジョワ社会の虚偽を暴く姿勢をも「自然主義」に加えたためである。当時は一般に、ドストエフスキーの作風も「自然主義」と目されていた。そして、すでに、ヨーロッパの「自然主義」の流れは、イプセンがそうであったように、自然の背後の神秘(渡り鳥の驚くべき飛行距離)に向かう傾向を強くし、象徴主義やメルヘンに傾いていた。その傾向をヨハネス?フォルケルト『美学上の時事問題』(Johannes
Volkelt, Asthetisce
Zeitfrangen,1895)は「後自然主義」(Nachnaturalismus)と呼び、象徴主義と同じ方向に向かっていると論じたが、それを、すでに森鷗外『審美新説』(1900)が翻訳紹介していた。また、国木田独歩『武蔵野』(1901)や徳冨蘆花『自然と人生』(1900)も、「自然の生命」と触れあう境地を書くことを目指していた。
田山花袋『蒲団』(1907年10月)は、花袋自身を想わせる中年作家が若い女弟子にさもしい欲望を抱き、神経をおかしくする。これは、ロマンティック?ラヴに伴う症状として、ヨーロッパの小説でしばしば書かれてきたものだが、そこで性欲は「自然の最奥に秘めたる暗黒なる力」と記されている。花袋は『蒲団』発表の翌月、エッセイ「象徴派&#6年11月)で、ヨーロッパの「自然主義」は「純客観」に出発しながら、近代人の神経過敏さゆえに、「主観的傾向」を増し、「空想、深秘、象徴」へ向かっていると述べている。花袋は鷗外『審美新説』を参照し、『蒲団』を「後自然主義」に向かうつもりで書いていたのである。
それ以前、岩野泡鳴『神秘的半獣主義』(1906)は「メーテルリンク(Maurice
Maeterlinck,
- )の兄弟分」を名乗り、「自然主義が深まると神秘に向かわざるを得ない」といい、一切の概念や観念を脱して感情の刹那の燃焼を生きる「刹那主義」を主張していた。また、ドイツ留学から帰った島村抱月は、禅の三昧境にたとえて「物我融会して自然の全円を現じ来たる」境地を「新自然主義」と呼んだ。岩野泡鳴は、これに同調する。田山花袋も仏教的境地などを目指すようになってゆく。1910年ころには「自然主義」は、性欲の代名詞のようになり、一挙に衰退していった。このように「自然主義」から「象徴主義」(見えないもの、永遠なるもの、無意識の働きなどを表現するために象徴表現を意識的に用いる流派で、イギリスやフランスのそれ、ドイツの気分情調論などを受け取って展開した。朦朧とした描写もリアルな現実の再現もとりうる)に向かった明治後期の文芸シーンを戦後の文芸批評家たちはとらえそこねてきたのである。
5、第二次大戦後の「近代の超克」論
5-1, ダブルスタンダード
「近代の超克」思想の見直しの機運が生じたのは、1960年の日米安保条約の改定をめぐって、反米ナショナリズムが高まった時期である。竹内好「近代の超克」論は、アジアの民族独立運動を支持する立場に支えられていたが、上山春平『大東亜戦争の思想史的意味』(1961)も、日本の侵略戦争のもつ二重性を指摘した。勇敢に戦った兵士たちの心意気を救済するような意味も込められていたように感じられる。
明治以来を通して見れば、日本の東アジアへの膨張の動きと西洋列強に対する弱小国の独立を支援する動きとの二重戦略(ダブルスタンダード)は認められる。朝鮮半島をめぐって、ロシアと対峙した間にも、朝鮮独立支援の動きがあり、満洲をめぐっても、東亜同文会(1898年創立)の会長だった近衛篤麿は、満洲解放論を唱え、1900年、犬養毅、、、らとを結成し、清朝末期に洋務運動を指導した劉坤一や張之洞らに働きかけた。だが、これらは政府の方針とは、分裂したものだった。
日本は、日清戦争、日露戦争によって、台湾、朝鮮半島を領土におさめ、第一次大戦に乗じて、青島(1914年、ドイツの租借地を占領、1922年に中国に還付)や南洋諸島(1919年、委任統治領)を手に入れ、日露戦争で獲得した南満洲鉄道の付属地もひろげていった。が、ソ連を牽制するシベリア出兵(1918年)を行ったものの、列強の監視下で領土拡張には失敗。1920年に国際連盟の常任理事国となり、国際協調路線をとった。だが、1927年に田中義一内閣は山東半島に出兵して失敗した。再び国際協調路線に戻り、1930年、浜口雄幸首相はロンドン軍縮条約を調印、比准し、右翼に銃撃された。その10年余りのあいだ、日本の路線はジグザグした。1931年に満洲事変を起こし、32年に「満洲国」を建国した。これで勢力下においた地域は飛躍的に拡大した。総面積をあげるまでもあるまい。その後も華北に侵出、日中戦争で「和平地区」を拡大、「大東亜戦争」で東南アジアを軍事占領していった。
「民族協和、王道楽土」の旗を掲げる「満洲国」建国をリードした石原莞爾や協和会の人びとは、「植民地にしてはならない」と繰り返したが、それは支配者風をふかせる日本人に対して、統治の理想のあり方を説いたのである。ソ連に対峙する戦略地域を保持するために、溥儀(建国時執政、のち皇帝)の首根を関東軍が抑え、政府要人に旧帝政派ら中国人をすえつつ、中枢部を日本人が握る傀儡政権をつくり、清朝のとった少数民族の隔離政策や孫文の五族(漢?満?蒙?蔵?回)共和をいわば引きつぐかたちをとった。国際協調路線から台湾、朝鮮で文化政策をとっており、国際的な孤立を少しでも避けるため、また人口比率からも、そうしなければならなかったのである。
そして、膨張?侵略とアジア独立支援のふたつの矛盾する態度を、いわば構造的に「統一」したのが近衛文麿の「東亜新秩序」声明だった。だが、それは、すでに領土の一部とし、住民に国籍を与えた台湾と朝鮮半島には適用されなかった。また、日本軍の各地の占領方針にも貫徹しなかった。
天皇制ファシズム‐対‐デモクラシーの図式で、日中戦争から対米英戦争へと展開した日本の歴史を割り切る風潮は、極東軍事裁判(東京裁判)がつくった歴史観によっている。それは、日本政府が、アメリカも加わったロンドン軍縮条約(1930年)を結んだことや、日ソ中立条約を無視している。ソ連が連合国側についた時期をも勘案せず、ベルサイユ体制を破壊したナチスを裁いたニュルンベルク裁判とちょうど見合うかたちで、アメリカ主導で太平洋に築いたワシントン体制(1922年)を破壊した日本を裁くものだった。
林房雄『大東亜戦争肯定論』(1964)は、ファシズム‐対‐デモクラシーの図式を連合国側の歴史観によるものと鋭く指摘した。だが、彼は、それに対して、幕末維新以来の大アジア主義の系譜をたどる「東亜百年戦争」史観を主張している。林房雄は、1942年2月、シンガポール陥落の日、新京(長春)で、中国人作家、古丁を相手に、満洲事変は「大東亜戦争」を準備するものだったことを「新発見」と語っていた。「東亜百年戦争」史観は、そのとき気づいた事後解釈を、最大限、拡大したものだった。戦時下に蔓延した事後解釈が戦後に生き延びた例である。ほかにも、葦津珍彦(うずひこ)『明治維新と東洋の解放』(1964)が出ている。アジア主義者、頭山満のいわば門下の書である。
5-3, 丸山真男の破綻
&第二次大戦後、ダグラス?マックァーサ―が率いるアメリカの進駐軍は、戦時期の日本を「ウルトラ?ナショナリズム」と規定した。神がかった国体論と「大東亜栄圏」構想を掲げて、東南アジア侵略を行ったことを規定したものと考えせれる。それに日本側から応えたのは、丸山真男「超国家主義の論理と心理」(1956、のち『増補?現代政治の思想と行動』1964)だった。丸山は日本の「超国家主義」を、次のよう述べている。
「『天壌無窮』が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に『皇国武徳』の拡大が中心価値の絶対性を強めて行く――この循環過程は、日清?日露戦争より満洲事変?支那事変を経て、太平洋戦争に至るまで螺旋的に高まって行った」。
「天壌無窮の皇運」は、教育勅語の「国憲を重んじ、国法に遵(したが)い、一旦緩急(かんきゆう)あらば、義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼(ふよく)すべし」を踏まえたもの。「皇国武徳」は軍人勅諭(1882)に出てくる語で、天皇の軍隊のおよぼす神聖な力くらいの意味である。天皇の「絶対価値」の上昇と日本帝国主義の勢力圏の拡大とが互いに支えあいながら(循環過程)、第二次大戦期の頂点をめがけて進行したと説いている。ここで、丸山は、必ずしも「明治以来の天皇制ファシズム」といっているわけではないが、この漸進史観は「明治以来の天皇制ファシズム」を容易に引き出した。たとえば長谷川正安『日本国憲法』(岩波新書、1957)は「戦時中のこのような天皇制イデオロギーのあり方は、けっして戦時中だけのことではなく、明治以来の天皇制そのものの姿であった」と述べている。
丸山の螺旋的漸進史観うち、日本の勢力のおよぶ範囲が、漸進的に拡大したわけでないことは先に見たとおりである。天皇の威信の高まりも、なめらかに上昇したとはいえない。明治国家は、日清、日露戦争で、それぞれ台湾、樺太を割譲し、「日韓併合&#6)にいたった。明治天皇が歿すると、をふくめると領土を二倍に拡張し、西洋列強と肩を並べまでになった明治という時代を率いた天皇は、日本を建国した神武天皇に次ぐ大帝と称賛された。明治後期の世論をリードした総合雑誌『太陽』の臨時増刊「明治聖天子」(1912年10月)は、この基調で貫かれている。だが、そのあとを受けた大正天皇に対する国民の崇拝度は明らかに下降した。病にふせる大正天皇に代って摂政(日就任)をつとめた昭和天皇の即位
には期待が高まった。即位の詔勅には大正天皇の即位のときにはなかった「神ながらの道」が現れる。これは、即位前に東京帝国大学憲法学教授、筧克彦が進講を行ったことを受けている。筧克底は、天皇は「宇宙大生命」の現れであり、国民はそれに帰一すべきこと、儒学、仏教、キリスト教なども同化しうるものであることを説いていた。神がかった国体論の精髄であり、のち、一般向けの『皇国精神講話』(1930)は、皇道派将校たちの教科書のようになってゆく。
とはいえ、1911年の天皇機関説論争以来、公認されてきた天皇機関説にかわって、天皇主権が認められるのは1935年である。そして、「神の国日本」と神がかった天皇崇拝が高まってゆくのは、1937年、対中国戦争が本格化してのちのこと。天皇の権威の高まりについては、上昇、下降、上昇、急激なジャンプと見てよい。
丸山真男「日本の思想」は、「伝統への思想的復帰は、いってみれば、人間がびっくりした時に長く使用しない国訛(なまり)が急に口から飛び出すような形でしばしば行われる」といい、それを「突然変異」にたとえ、その例として「維新の際の廃仏毀釈」「明治十四年前後の儒教復活」「昭和十年の天皇機関説問題」をあげている。この突然変異説は、明らかに螺旋的上昇説とはくいちがう。だが、丸山は「突然変異」は外見で、「飛躍の要因は内在している」という。ジャンプを準備したものがある、というわけだ。「超国家主義の論理と心理」で説いた螺旋的上昇説の破綻をとりつくろっているように思える。なお、「維新の際の廃仏毀釈」については、武士層では後期水戸学、民間では平田篤胤の思想の浸透などが基盤になり、各地で民衆が過激化したことは、檀家としての不満が潜在していたと考えられる。大きな流れとしては一時な激発であり、神仏習合がおびただしいところも多く、「廃仏毀釈」は挫折したが、神社神道の国家管理を進めるきっかけになった。それに対して「明治十四年前後の儒教復活」を現象として一時的なものと見るのは、丸山真男が福沢諭吉らの欧化主義に肩入れしているからである。漢学は、知識層が英学を受容するにも、英華、華英辞典や上海経由の漢訳版の書籍などが幕末から必須とされ、エリート養成のための中等教育にも「国語」として位置づけられていた。英学の流行と政府の極端な欧化主義に対するリアクションとして、そのころから政教社の主張も刺戟として働き、若い知識層に日本古典プームと漢学ブーム、書道プームなど、文化ナショナリズムが相次いで興り、定着した。日清戦争時、暗誦と作文が必須科目から外されたので、書く能力は著しく低下してゆくが、第二次大戦期の新聞は、ほとんど漢字で埋め尽くされているといってよい。
丸山真男「日本の思想」は、「近代の超克」の発生を、明治期の欧化主義とほとんど同時に登場すると述べ、岡倉天心『日本の目覚め』(The
Awakening of Japan,
1904)から「冨の偶像崇拝」におちいった西欧の現実を告発する文章を引用している。ここで丸山が「欧化主義」をどのような意味で用いているのか、判然としないが、中村敬宇や福沢諭吉ら明治啓蒙思想は、西洋のキリスト教ないしは自然権による個人の自由と平等を説く人権思想を「天道思想」――江戸時代の民間哲学で、儒学を中心にした神?儒?仏の三教一致論に立ち、それぞれの身分に応じて徳の実践を説く石田梅岩や二宮尊徳の思想――で受けとるか、それを用いて説明している。それは、彼らの自由と平等を未分化のままにした。福沢の場合、個人、地域社会(福沢は江戸時代の藩と類推して了解したらしい)、国家間の競争を当然のものとする思想で、社会的、国家的不平等の発生に対処しえない思想のしくみだった。そして、「天道思想」は、自由民権の運動のなかでも、ジェレミ?ベンタム(Jeremy
Bentham, 1748 - )や、それに少数者の精神的な高さを尊重する精神を補ったジョン?ステュアート?ミル(John
Stuart Mill,
- )の功利主義の浸透に立ちふさがった。それよりも浸透しやすかったのは、ハーバート?スペンサー(Herbert
- )やダーウィニズム(Darwinism)の「自然の理法」に立つ進化論であり、それも国家や民族間の闘争を必須として理解する向きが強かった。
岡倉天心の場合、『東洋の理想―日本の美術を中心に』(The Ideals of the East-with special
reference to the art of Japan, )
や『茶の本』(The Book of Tee,
1906)が原理においているのは、道教の「気」(Spirits)を「生命」に置き換えた「宇宙の生命」だった。『東洋の理想』で、天心は芸術の精髄を、次のように述べている。
美とは宇宙に遍在する生命の原理であり、星の光のうちに、また花の鮮やかなる色彩、過ぎゆく雲の動き、流れゆく水の運動のうちにきらめくものである。宇宙の大霊は、人間に相等しく浸透して、宇宙の生命を瞑想のうちに観照するわれらの前に広がる。生命存在のもろもろの驚くべき諸現象のうちに、芸術家の精神がみずからを映し得る鏡が見出されるだろう。
「宇宙の大霊」(the &great
World-soul)は、アメリカの詩人、エマーソンのエッセイ「大霊&#6)を想わせる。この「宇宙に遍在する生命の原理」(the
vital principle that pervaded the
universe)や宇宙の活動を意味する「宇宙の生命」(world-life)という観念は、エマーソンの超絶的なスピリティシズムを道教の「気」の観念で受けとめたところにつくられたと見てよい。「気」を感じ取れるように描いた絵画が、美の「究極的なもの」「普遍的なもの」であり、東洋の、そして日本の「美」の精髄となる。岡倉天心は、その模範を室町時代の山水画の巨匠、雪村や雪舟に見出し、東洋的ロマン主義と呼ぶ。中世の山水画にヨーロッパ近代のロマン主義に匹敵するものを見ているわけだが、これにわれわれが違和感を覚えるとしたら、それは、1920年代のマルクス主義者が明治以降を「近代」と呼びはじめて以来の習慣のなせるわざである。
それとは別のことだが、天心は「気」の観念を道教のものと考えている。キリスト教が長く支配してきた欧米人にとって、東洋の信仰は異教や邪教にあたり、それを表現した美術はロマン主義であり「近代的」といえる。だが、日本人にとって「気」の観念は、伝統的観念のひとつであり、「近代的」と呼ぶのには無理がある。天心は、むしろ、カーライルやエマーソンらのスピリチュアリズムに立つ象徴主義の観念を借りて、東洋的象徴主義というべきではなかったか。実際、『東洋の美術』「明治時代」の章、狩野芳崖や橋本雅邦、横山大観らを称揚する前のところで、天心は「事物が芸術家に対して暗示する無限性」「自然の装飾的な様相における諸断片(中略)これらこそ、芸術家の意識が、まず身をひそめ、沈める象徴であり、気分であり」云々と述べている。この「無限性」「象徴」「気分」の語は、へーゲル『美学講義』が「自然の生命」の特殊な状態と人間の心の共鳴を述べたことを源にして、景物によって喚起される「気分情調」を醸し出すことに向かったドイツ表現主義の動きを受けとめたものかもしれない。ドイツ美術の分離派のなかでも「気分」を描く日本の絵画への評価が起こっていたという。これが天心の考えであり、『日本の目覚め』にも「農村共同体の心情やそれへの郷愁」は微塵も現れない。
日露戦争を前後して、競争社会が激化したことには、多くの証言がある。たとえば夏目漱石『それから』(1909)には、日露戦争後の社会変化について、「近来急に膨張した生活慾の高圧力が道義の崩壊を促した」という漱石自身の時代認識が記されている。漱石が求めたのは、己れの「生活慾」から自由になり、道義を守り、責任をとりうる主体だった。それが「道義上の個人主義」(「私の個人主義」1914)の意味である。漱石が座右の銘とした「即天虚私」も、私欲を断って天の道義につくことであり、儒学や道家思想にもとづくものと考えてよい。
幸田露伴『修省論』(刊行1914)中「商人気質の今昔」は、江戸時代から信用第一をモットーにしてきた商売が、日露戦争後に様がわりし、「進歩発展」、何よりも「手腕」が第一で、競争が激しくなっていると「商業道」の混乱を指摘している。また「使用する者の苦楽、使用さるる者の苦楽」は、「利福の比例の不一致」や「互扶互持の対等関係」を説き、私有財産は本来、野蛮思想と言い切っている。露伴は、儒学、とりわけ陽明学を土台にして、西洋科学思想までを批判的に摂取している(『努力論』1912とくに、刊行に際して書き下ろした「進潮退潮」の章)。明治期からの実業界の大立者、渋沢栄一が『論語と算盤』(1916)で「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」と説いた道徳経済合一説の源も尊徳の教えだった。二宮尊徳の教えを奉じる報徳会は、全国に展開し、農村自治運動を支えもした。そして、河上肇『貧乏物語』(1917)序文は、「孔子の立場を奉じて富を論じ貧を論ぜしつもりである」と述べている。
他方、日露戦争終結とともに民間に興った「元禄流行」は、太平楽な江戸の町人文化への郷愁であり、江戸小紋などはアール?ヌーボーの受容と入り混じり、地方都市文化、地場産業の復興機運を呼んだ。永井荷風『帰朝者の日記』(1909、のち『新帰朝者の日記』)は、江戸の音曲による国民音楽創生の夢が破れる話であり、荷風『日和下駄』(1915)には、急激な物質文明の展開によって江戸の地勢と風景とが破壊にさらされていることへの糾弾がある。
その多くが大逆事件以降の社会主義思想弾圧下の刊行ではあるが、競争社会の進展に対して郷愁が寄せられたのは、江戸時代の篤農家の思想や、信用第一の商法や、太平楽な町人文化だった。この流れから、資本主義の浸透に対して、民間にギルド社会主義と呼ばれる組合主義が育ってゆく。これらを伝統的農村共同体の心情やそれへの郷愁と呼ぶのは的はずれだろう。
1910年代から30年ころまでに進行した重化学工業化、軽工業の大工場化に伴い、新中間層が形成され、民衆の生活が変貌した。1920年前後を頂点に工場ストライキが相次ぎ、以降、小作争議も続発する。第1次大戦の好景気のあとの不景気と関東大震災によって、世の無常を思い知った大衆の心には、やるせなくもわびしい思いが棲みついた。北原白秋とともに童謡や民謡運動に活躍した野口雨情の「船頭小唄」(原題「枯れすすき」1922)は、次のようにうたう
己(おれ)は河原の枯れすすき/同じお前も枯れすすき/どうせ二人は/この世では/花の咲かない枯れすすき
徳川時代の小唄、端唄にはらまれていたデカダンスの心情は、情調を重んじる象徴詩の技法と西洋音楽の旋法によって練りなおされ、ふたたび民衆のもとへ送り返えされ、長く口の端にのぼせられた。ここにも、農村共同体の心情や、それへの郷愁はない。1920年代には、都会にジャズの喧躁があふれたが、1929年にはじまる世界恐慌が日本を襲い、農村では「豊作貧乏」と重なり、農村競争が長引いた。国家改造へのうねりに期待と不安におののく、大衆の心を慰めたのは、太平楽な町人文化への郷愁だった。
    野崎参りは 屋形船でまゐろ/どこを向いても菜の花ざかり/意気な日傘にや蝶々
もとまる/呼んで見ようか 土手の人
「野崎小唄」(作詞、今中楓渓、作曲、大村能章、歌、東海林太郎、ポリドール?レコード、一九三五)は、江戸時代の大坂の民衆の野遊びや川遊び――浮世絵に満ちている――を題材とともに俗謡調をリヴァイヴァルさせたものにほかならない。二番に「お染久松」も出てくる。近代詩史では、日露戦争後に、横瀬夜雨ら『文庫』派の象徴詩人たちが小唄など俗謡調への傾斜を示し、北原白秋や野口雨情らの新民謡に受けつがれたものである。丸山真男に限らず、戦後知識人の大方が、1910年代からの組合主義も、1920~30年代の都市大衆文化も、とらえそこなっていた。
では、丸山真男「日本の思想」のいう農村の「共同体的心情ないはそれへの郷愁」は、何に根拠にしているのだろう。丸山は、1938年に農政学者が「農家小組合」には「自然村的乃至伝統的結合力」が内在すると論じた『産業組合』五月号をあげ、「部落共同体的人間関係はいわば日本社会の『自然状態』」と考えている。
1937年秋に、国民精神総動員運動がはじまる(翌1938年4月法制化)り、その年のうちに、ナチスのヒットラー?ユ―ゲントなどの労働奉仕団にならった勤労奉仕団運動が農村に展開した。全般的に伝統主義の論議が盛んになるなかで、個人よりも「家」、そして村落の同業組合的結束も伝統的美風として論じられていた。丸山のいう「一家一村『水入らず』の共同体的心情」とは、この時期の伝統主義の論議が「発明」したゲマインシャフト(自然発生的社会集団)論に依拠したものだったのである。
6、結び―「近代の超克」思想の根本
6-1, 「近代の超克」の考え方
「近代の超克」思想とは、何か。それは「近代」と「超克」の定義次第である。丸山真男は、西洋近代の「富の追求」に東洋の精神主義を対置する考えを岡倉天心に見て、それを「近代の超克」と呼んだ。とするなら、功利主義の浸透に対して、無教会派キリスト教を率いた内村鑑三『日本および日本人』(Japan
and Japanese,,
のち『代表的日本人』Representative Men of Japan, )は、「封建」思想を賛美している。その中身は王陽明の思想を「偉大な学説」とし、最もキリスト教に近くまで達したといい、全体に日本の陽明学や二宮尊徳の思想を支持するものだった。
欲望の増大に対して、道義をもって対処しようとした夏目漱石の考えも、西洋の自然征服観に対して、日本人の自然に対する積極的な愛を訴えた藤岡作太郎の「伝統の発明」も、みな、「近代の超克」思想に数えられるだろう。だが、これらについては、反西洋近代ではないか、という反論も出るだろう。そこで、「近代の超克」を「近代」を何らかのかたちで明確に措定し、それを乗り越える姿勢をもつものに限定することにしよう。
 その名に最もふさわしいのは、資本主義を克服するために、国家権力を労働者階級が握る世界同時革命を展望したマルクス主義、あるいは労農同盟による革命を指揮したマルクス?レーニン主義かもしれない。資本主義と国民国家のふたつの「近代」を同時に超える展望を打ち出しているからだ(レーニンは、専制国家の打倒を通じて国民国家―民主主義の形成も同時に成し遂げ、さらに階級廃絶に向かう展望を、少なくとも革命当初はもっていた)。
 先進国においては、第一次大戦によって、国家と独占資本とが結びつきを強め、1920年代に入ると、大衆の消費欲望の増大が経済を牽引し、大量生産/大量宣伝/大量消費のサイクルが回りはじめ、大衆の動向を掌握することが国家権力を握る鍵になっていた。帝国主義とソ連よが指導する国家社会主義型の共産主義がせめぎあう時代に入ると、その間隙を縫って、大衆を民族全体主義に吸引し、生き残りと周辺の制覇を狙う勢力が登場する。イタリア?ファシズムである。ソ連が1929年からの世界恐慌の波をかぶらなかったことによって、国家社会主義の有効性が証明され、アメリカもニュー?ディール政策をとった(イギリスは、もともと国家資本が大きかった)。この国家形態はブルジョワジーがマジョリティーを占める近代国家モデルを、国際関係は資本の無政府主義的展開をモデルにする西洋「近代」の構図を明らかに超えている。いわゆる後進国も、この国際関係に規定される。1920年代から1930年代にかけて、世界全体が「近代」のシステムを超えていたともいえる。
6-2, 20世紀生命主義
 経済や国家のシステムと国際関係ではなく、精神文化についていうなら、岡倉天心の美術の考えは、近代リアリズム絵画の手法を超える意図を明確にしていた。いや、ヨーロッパに興った無限の精神性や、そこはかとない気分情調を醸し出す象徴主義絵画が、すでに近代絵画のあり方を超えようとするものだった。それは、文芸でも同じである。岩野泡鳴や島村抱月の唱えた「新自然主義」は、「自然主義」を主体と客体の分離、近代的な疎外と見て、それぞれに、それを超えた主客融合の境地を理想とした。
 哲学においては、西田幾多郎『善の研究』(1909)は、近代においては知識ばかりが優先され、知?情?意が分裂していることを克服し、人間の全体性の回復を訴え、人類と一体になって生きること(善)、神(「永遠なる真生命」、『自覚に於ける直観と反省』1917では「宇宙の大実在」)と一体となる境地を宗教の根本として説いた。禅宗や陽明学を基礎に、ドイツ観念論の流れ、新カント派などの新しい哲学の動きを参照しているが、最大のヒントになったのは、「わたしはいま、何をしているか」という自意識の働かない状態(非反省的意識,
non-reflective
consciousness)を考察したアメリカのプラグマティズムの流れに属するウィリアム?ジェイムズ「純粋経験の世界」(A World
Experience,1905)だった。西田はそれを主客未分の状態ととらえ、母親と一体になっている赤ん坊から、崖にへばりついているとき、芸術家が一心不乱に製作に励んでいるとき、また禅の三昧境までに共通するものと考えたのである。
 20世紀への転換期の新しい哲学は、人間の意識に焦点を合わせていた。世界の創造主として神を想定することも、世界は物質の科学変化によってつくられているということも、先入観に過ぎず、人間が世界を認識するのは、感覚を通して感じた刺戟を通して知覚することにはじまるという原点に立とうとしたのである。フランスのアンリ?ベルクソンもそのひとりだった。『時間と自由』
(Henri-Luis Bergson, Essai sur les donn&es imm&diates de la
conscience,
1899)で、感覚の記憶が蓄積されて知覚となり、それによって人間は絶えることなく持続する意識の底にある根源的な生命のリズムにあわせて生きていると論じ、『創造的進化』では、生物進化の根源には突然変異があるという新しい学説を応用し、根源的な生命の流れに跳躍が起こることで世界は創造発展すると唱え、これまでの、世界がある目的に向かって運動していると考える目的論(進化という目的は否定しえないが)と、世界はメカニズムによって運動していると考える機械論とを同時に超えたとしている。これも近代哲学を超える思考だった。世界の根源に生命の流れを想定するのは、当時の物理学界でエネルギー一元論(Energetic,
energy economics)が支配的だったこと、それを受けて、ドイツの生物学者、エルンスト?ヘッケル(Ernst
Heinrich Philipp August Haeckel,
)が宇宙の生命エネルギーの循環論を唱えていたことなどが働いていよう。
 日本では、これら欧米の新しい物理学、生物学、哲学、美学の動きを神?儒?仏?道家道教思想で受け取り、生命を宇宙の原理とするさまざまな傾向をもつ生命主義の思潮が1900年代から1920年代に渦巻いていた。一時期、科学を標榜するマルクス主義が勢いをもつため、勢いを失うように見えるが、むしろ拡散してひろがり、1935年を前後して、世界の普遍原理を体現する日本精神として再浮上したと考えてよい。西田幾多郎の「歴史的生命の生々発展」という歴史観もそのひとつであった。要するに、日本の「近代の超克」思想を推進した根本は、20世紀の生命主義思潮だったのである。
竹内好(1959)33頁。
丸山真男(1961)50頁
丸山真男(1957)27頁。
『近代の超克』(1943)44頁
長谷川泉「中村光夫」『新潮日本文学小辞典』1968,『新潮日本文学辞典』1988
丸山真男(1961)11頁。
三木清(9、512頁
井上友一郎(1頁。
武藤秀太郎(2009)を参照。
蝋山正道(1938)
25頁。有馬学(2011)を参照。「誰に向かって語るのか?―東亜協同体論者の自己意識」(鈴木貞美編『「Japan
To-day」研究―戦時期「文藝春秋」の海外発信』2011)
鈴木貞美(2010-4)を参照
酒井三郎(頁を参照。
徳富蘇峰(1938)&頁
永野基網(頁を参照
三木清(頁。
世界史的立場(頁。
同前127頁。
同前196頁。
同前225-255頁。
同前171-172頁。
同前326-331頁。
同前12頁。
西田幾多郎(頁。
坂口安吾(1946)59頁
 同前385頁。
 鈴木貞美(2010-3)を参照
 小林秀雄(頁
 小林秀雄(9-220頁
 小林秀雄(頁
 小林秀雄(1943)&頁
 小林秀雄(頁。『新訂 小林秀雄全集2』
田山花袋(1907-1)&頁
田山花袋(1907-2)&頁
&岩野泡鳴(1906), p.4
&島村抱月()
林房雄(1964)&頁。
林房雄(頁。梅定娥(2009)57頁を参照
丸山真男(1956)28頁。
長谷川正安(頁。
鈴木貞美(2001)を参照
丸山真男(1957)12頁
丸山真男(1961)&頁。
岡倉天心(頁。
岡倉天心(頁。
稲賀繁美(2001)を参照。
夏目漱石(1909)&頁。
夏目漱石(1914) &頁
幸田露伴(1914) &頁。
渋沢栄一(1916)22頁
河上肇(1917)&頁。
丸山真男(1961)27頁。
野口雨情(頁。
同前48、51頁。
やまもと?じろう(1938) を参照
内村鑑三(1908)22頁。
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