求次元舰队第二季-戦闘「みらい」BGM

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中島 キ84 四式戦闘機「疾風」
にてによりテスト中のキ84増加試作機(第124号機)
運用者: ()
初飛行:4月
生産数:約3,500機
運用状況:退役
四式戦闘機(よんしきせんとうき)は、時のの。(試作名称)はキ84。は(はやて)。呼称?略称は四式戦、四戦、ハチヨン、大東亜決戦機など。のはFrank(フランク)。開発?製造は。
一型甲(キ84-I甲)の
(キ27)、(キ43)、(キ44)と続いた、技師を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、全体的に保守的な設計ながらよくまとまっており[]、?????操縦性および生産性に優れた傑作機であった。また、624km/hという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速であった(キ84-I乙試作機が試験飛行の際に660km/hを記録したとされ、戦後のによるテストでは687km/hを記録している)。(キ67)と共に重点生産機に指定され、総生産機数は基準孔方式の採用など量産にも配慮した設計から、(昭和19年)中頃という()後期登場の機体ながらも、戦闘機としては、一式戦に次ぐ約3,500機に及んだ。
帝国陸軍から早くから「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として大いに期待され、大戦後期の主力戦闘機として多数機が各といった第一級線の実戦に配属され参戦し、対戦したアメリカ軍からも「The best Japanese fighter(日本最優秀戦闘機、日本最良戦闘機)」と評価された[]機体だったが、搭載した新型?(名?)の不調や、?()の品質低下、?といった部品の不良?不足、力の低下などにより全体的に稼働率が低く、また、スペック通りの最高性能を出すのが難しかったため、大戦後半に登場した陸海軍機の多くと同様、評価の分かれる[]機体である。
(昭和16年)12月29日、(のちの二式単戦)の発展型として中島に対し、最高速度680km/h以上、20mm2門?12.7mm機関砲2門装備、??など、あらゆる任務に使用可能な高性能万能戦闘機の開発指示がなされた。当初はキ44の2,000級エンジン搭載型であるキ44-III(計画のみという説と少数機試作されたとの説がある)をベースに翼面積を増やして着陸を容易にし、燃料搭載量を増して航続距離を伸ばし、強力なエンジンにより速度?上昇力の向上を狙ったものになる予定であった。
しかし、キ84は最初から広大な太平洋戦域で運用される事が決まっていたため、更なる航続距離の伸長が求められ、燃料搭載量の増加と共にを計画値の155kg/m?に収める為に翼面積の拡大を余儀なくされ、2,700kg程度と目されていた全備重量は3,000kgを優に越える見通しとなり、それに対応して翼面積を増やすとまた重量が増加するという悪循環に陥り、特に主翼の設計は難航した。さらに、前線からの要求で防弾?防火装備、武装の強化なども必須となり、これも重量が増加する一因となった。
結局主翼面積は計画値の17.4m?から最終的に21m?となり、予定していた全備重量が実機の自重になってしまう程だったが、紆余曲折を経てようやくキ84の設計はまとまり、(昭和18年)3月に試作1号機が完成。試験飛行は1~3号機までは比較的順調に進み、好成績を収めたが、量産型のハ45を搭載した4~7号機ではエンジンとのトラブルに悩まされ、特にエンジンに関しては試験期間中最後まで解決しなかったと伝えられる。
問題を抱えながらも一刻も早い実用化と生産体制の整備を目的に、また飛行実験部(旧?飛行実験部実験隊)のであるの進言により、増加試作機は10機以内という従来の方針を転換し審査と試作を併行して進めた結果、制式前に100機を越える大量の増加試作機が生産され、1944年(2604年)4月にキ84は四式戦闘機として制式採用、順次中島飛行機製作所工場?工場で量産が開始された。
四式戦「疾風」初公開時の写真。としてに「の3本ストライプ」、下端を「の」で塗り分け、さらに機体番号(第491号機)下二桁の「91」を描いた飛行第73戦隊の一型甲(キ84-I甲)
1944年10月、四式戦はにおいて各関係者に初公開された。公開された機体はに所属し、無塗装銀地にや機体番号などを描いている実戦機であり、この際に写真撮影された機体(右掲)は最初期量産型である第491号機であった。
さらに愛称は「()」?「(二式単戦)」?「()」?「屠龍()」といった各新鋭戦闘機に次ぐものとして日本全国から募集された。中でも多くの票数を占めかつの選定を受けた結果「疾風」(はやて)に決定し、(昭和20年)4月11日付の各にて「殊勲を樹てている陸軍最新鋭戦闘機」「疾風のごとく敵に襲いかかるわが戦闘機の雄姿を讃ふにふさわしい名前」という賛辞が交えられつつ、実戦部隊所属機の写真付きで発表されている。
四式戦「疾風」は「帝国陸軍の新鋭戦闘機」として国民に知られた存在であり、に代表される広報活動に対する陸軍の関心の高さも相まり、「疾風」もまた各メディアで登場することになる。例として、日公開の第254号では『陸の猛鷲「疾風」戦闘機隊 神州犯す醜翼に挑む我等が決戦機隊』と題し、『疾風戦闘機隊の歌』をBGMに、機体番号を派手なで大きく垂直尾翼に描いた所属の四式戦数十機の映像(地上駐機時や、離陸や低空飛行シーン)が使用されている。 なお、この日本ニュース第254号『征空部隊』号は海軍のと前後でセットになっており、また大戦最末期の公開のため第二次大戦最後の日本ニュースとなっている。
本機に付けられた連合軍のコードネーム「Frank(フランク)」の由来は、当時でした当機をテストしたチームの長、フランク?マッコイが、優れた性能を持つ敵機に自らの名を呈上したものだと伝えられる。
彼はコードネームを付与する部門の責任者でもあり、自分の名前を有力な戦闘機に付けたいと願い、一旦「三菱陸軍零式単座双発戦闘機(Mitsubishi Army Type 0 Single-seat Twin-engine Fighter.」(架空の機体)に与えたが、のちにそれを取り上げて四式戦に割り当てた、ということになっている。「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」には代わりに「Harry(ハリー)」という名が与えられたという。
四式戦は2,000馬力級戦闘機としては極めて小型、軽量に設計されている。基本的に一式戦、二式単戦の延長線上にあり、機軸と前縁が直交し後縁が前進する主翼や、水平尾翼より後方にある垂直尾翼、蝶形、前後で分割する胴体など、中島製戦闘機の特徴を有している。ただし、一式戦や二式単戦がエンジンの後方から急速に絞られた胴体を採用しているのに対し、四式戦ではここでの発生を警戒して零戦に類似した徐々に細く絞った胴体形状を採用しているのが特徴となる。生産性に配慮しているのも特徴で、一式戦や二式単戦と比較して生産時間が2/3ほどに減少している。
生産性を除くと四式戦の機体設計は従来の一式戦や二式単戦とあまり変わり映えのしないものであったが、九七戦や一式戦では軽く設定されていた操縦系統が意図的に重く設定されている。
従来の軽い操縦系統は急旋回を行えるためその際にかかる荷重に対応して機体強度を高くしなければならず、強度確保のために機体重量が増加し、結果として飛行性能が低下するという悪循環が起きていた。そこで、急旋回を難しくすることで機体強度を低く設定して機体の軽量化を図り、速度や上昇力の向上につなげるという意図の元に重い操縦系統が採用されている。これは陸軍から中島飛行機のテスト?パイロットに転出した吉沢鶴寿の意見を取り入れたものと推測される。以下に機体設計時に吉沢が述べた意見を記す。
「そこで私は翼桁を太くするよりを重くして欲しいといった。は軽目でもいいが、昇降舵と方向舵は重目でなければいけないというのが私の考え。それというのもキ27から日本人は舵の軽いのに慣れてきた。その方が器用に扱え、もこなせるからであった。ところが、キ43クラスになるとを思わず引っぱりすぎて空中分解を起こすケースも出てきた。これを避けるには翼桁を太くすればよいかもしれないが、それでは機体が大きく重くなる。これに対し、アメリカ、、のは実に舵が重い。どんなに引っ張っても、われわれ日本人の力では効かないぐらい重い。これはひとつにはスティックの長さが違うこともある。日本のは長い。当然、レシオが異なってくるわけで、この点を改めたいと思っていたわけだ」
— 吉沢鶴寿、井口修道「軍用機メカ?シリーズ7」中の「異色のテス?パイ“疾風”を語る」光人社より
このため四式戦では急旋回を多用する従来の()を行い難くなり、四式戦に適応したを用いなければ本来の能力を活かせなくなった。その為、太平洋戦争初期からのベテランの一部からは「いざというときに敵弾を回避できない気がする」や「座敷のような広い主翼のついた、押しても引いてもびくともしない戦闘機」、「何をしてもできるが、何をしても大したことがない戦闘機」と不評を投じる向きもあった。
上記、昇降舵の重さについては設計主務者である小山悌、テストパイロットの吉沢鶴寿、計画課長の内藤文治は「航空情報」誌馬場一夫の司会する対談において戦後以下のように述べている。
「吉沢 さん(元少佐)も述べていたようですが,突っ込みがよくなかったと思いますね。
馬場 加速性が悪いのですか?
吉沢 つまり,突っ込みますと,昇降舵に応えて重くなり, 押さえがきかなくなってしまう。だから,機首が持ち上がってしまう。
小山 あの時の思想としては,ある程度突っ込んでいったら, 機首が起きるほうがよいと記憶しています。どんどん突っ込んでいったら,どんなことになるか分からぬ。そういうことを審査員が心配されたので,意識して「昇降舵は速度を増してくると重くなる」といっていましたよ。
吉沢 敵がどんどん逃げたら,どうしょうもない。
小山 そう,逃げる者は当時としては追わぬ,戦闘機パイロットの思想としては……。
内藤 結局,戦法が変わっちゃったのだから……。」
— 「知られざる軍用機開発」下巻 中の座談会『キ87高々度戦闘機の思い出』酣燈社より
操縦者によっては四式戦より慣れ親しんだ一式戦や、末期に登場した(キ100)を高く評価する事があるのは、エンジンの信頼性の他、パワーアップされた三式戦闘機「飛燕」(キ61)改といえる旋回性能を極限まで発揮できる機体であったからとも言える。しかし、附の「操縦桿を力っぱい振れば格闘戦用の旋回能力もかなりある」といった感想や、実戦での模様から四式戦は「格闘戦も出来る」「軽戦(一式戦)と重戦(二式単戦)の良いとこ取り」とも評価され、また、高高度での操縦性や速度、防御の点で本機の右にでる日本機はなく、まさに「大東亜決戦機」であった。
詳細は「」を参照
搭載エンジンであるハ45(誉)は/(海軍名「」)の18版とでも言うべきものであり、当時欧米に水を空けられていたエンジン技術の格差を埋めるべく、ハ25と殆ど同じ前面面積で約2倍の出力を目指した新世代エンジンであった。やや無理な小型化が行われたためエンジン各部の余裕が少なく、「芸術品」と評されるほど繊細な部分があったとされる。このため大戦末期の量産時には、初期故障の頻発の上に、未熟な徴用工員を動員しての主導の無理な大量生産、更には、量産数を維持させる為の監督官からの指示が原因による品質低下等が起こり、額面通りの性能が発揮できないものが多発した。この事態に陸海軍や中島飛行機が手をこまねいていたわけではなく、可能な限りの対策が取られている。なお、1944年に海軍に納められた誉のの結果が、カタログ値より数割低かったという証言があるが、その反面で同時期にフィリピンでアメリカ軍に鹵獲され、好評価を得た機体のエンジンは完全な量産品であった。
ハ45は高品質の100オクタンガソリンの使用を前提に設計されたが、対外情勢の悪化に伴い入手が困難となったため、91オクタンガソリンにを行うことで100オクタンガソリンと同様の効果を得られる様に設計変更された。反面この水メタノール噴射の調整が難しく、ハ45の不調原因の一つとなっている(海軍の局地戦闘機においても同様の不調が発生している)。因みに「陸軍は87オクタンガソリンが精々で実態はそれ以下」とする説もあるが、本土だけでなく南方に展開していた実戦部隊の記録には最低限の需要を満たす程度の91オクタンガソリンは安定的に供給されていたことが記されており、87オクタンガソリンで飛んだという証言も「後方で実用機を転用したに使えるかどうか試してみた」や「実戦でも使えないか試験的に入れて飛行してみた」という記述がほとんどである。つまり、陸海軍を問わず、練習機を除く第一線の実用機には91オクタンガソリンが使用されていたことになる。しかし、で整備隊長を務めていたは自著で「これ(ガソリン)自身も果たして充分にその性能を発揮していたか疑わしい」と述べており、「燃料の性能が額面割れ」していた可能性も全く無いとは言えない。
日と10日の2回、で行われた飛行実験機材によれば、供試機体キ84第3号機、発動機ハ45特とある。中島飛行機の技術報告書によると、ハ45特は離昇2,000馬力のハ45(海軍名「誉」二一型)より先行して開発されていた離昇1,800馬力の誉一一型と同じになっている。つまり四式戦の初期試作機が搭載していたハ45特は「誉」一一型とほとんどおなじものということである。なお、ハ45特と離昇出力2,000馬力のハ45の性能差は、不具合への対策による運転制限によるものである。この運転制限はキ84の操縦参考書にも「ハ45特と同等の水準に運転制限を行う」と明記されている。なお、1944年末になっても、ほぼ同一エンジンのの操縦参考書において「制限解除の見通しが立ちつつある」と述べられていることから、かなりの長期間運転制限が行われていたのは確かである。
エンジンと並んで四式戦の不調の元凶となったのがプロペラで、一式戦や零戦に使われていたアメリカ「」式の油圧式可変ピッチプロペラではピッチ変更角度が足りず性能不足とされ、の「ラチェ」式を独自に改良した電動可変ピッチ機構を採用した。当初ピッチ変動速度が遅く戦闘機には不向きとされたが、で構造が改善され(毎秒1.2度→13.2度)戦闘機への搭載となった。しかし、今度は変節速度が早過ぎてハンチングやエンジンの過回転といった問題が発生し、最終的には電動機の電力を半減して動作速度を落とす(毎秒13.2度→6.6度)事で解決された。四式戦に採用されたプロペラは直径3.05mの四翅タイプで、2,000馬力クラスの諸外国の戦闘機が採用した3.6~4.0mに比べるといかにも小さく、上昇力や最高速度の発揮を難しくしたと言われている。同時期に海軍の/紫電改に採用されたドイツ「VDM系」のプロペラが直径3.3m、同じ中島製のが3.6mを採用したことから、機体を小型にまとめようとするあまり、小径のプロペラを採用したことを悔やむ意見も後年多く出されている。一般にプロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上する。戦闘機の設計において離陸と上昇、速度性能のどれを優先するかは運用コンセプトによって定めるものである。そもそも中島では、設計段階で「プロペラ効率76%で、最高速度660km/h」と試算し、実際それに近い速度性能を発揮している。
1945年、アメリカ軍によって鹵獲された四式戦と連合軍戦闘機との編隊飛行。手前より、四式戦「疾風」(編隊先頭)、、P-51D マスタング
四式戦の最高速度は、航空審査部キ84審査主任の陸軍少佐が高度5,000mで記録した624km/hが広く知られている。同じ試作機の別の記録では、640km/hというのもある。また、船橋が試作4号機により、高度6,120mにて631km/hを記録している。これらの記録は、いずれも集合排気管を装備した初期試作機のもので、量産型と同じ単排気管に改造した機体では、一型乙試作機が福生の審査部において、高度6,000mで660km/hを記録した。実戦においては、エンジンの調子が良い時ならば、一型甲量産機が650-655km/h以上出たという証言がある。
アメリカ軍はで鹵獲した1446号機(1944年12月に製造された量産機)を使い、戦後の(昭和21年)4月2日から5月10日にかけて、のミドルタウン航空兵站部(Middletown Air Depot)で性能テストを行った。140オクタンの燃料と高性能点火プラグを使用した四式戦は、武装を取り除いた重量7,490(3,397kg)の状態(四式戦の正規全備重量は3,890kgである)で、高度20,000(6,096m)において時速427(687km/h)を記録した。これは同高度におけるおよびの最高速度よりも、それぞれ時速3mi(5km/h)および時速22mi(35km/h)優速であった。。しかし、この高度6,096mでの最高速度が全高度における四式戦の最高速度であり、それ以上の高度では速度が落ちてしまうので、高度7,600 mで最高速度703 km/hを出せるや9,145 mで最高速度697 km/hを記録するに対して必ずしも優位に立っていたとは言えない。
陸軍単発単座戦闘機としては初めて計画段階から20mm機関砲()の装備が要求された機体で、当時の陸軍単発単座戦闘機の中では装備の二式単戦二型乙(キ44-II)を除き、三式戦一型丙/丁(キ61-I丙/丁)?二型(キ61-II改)と並んで最も火力が大きかった。また、一型甲(キ84-I甲)のは装弾数が各350発と、同じく機首砲としてホ103を装備する一式戦二型(キ43-II)?二式単戦二型丙(キ44-II丙)?三式戦一型乙(キ61-I乙)の250発~270発より約100発多くなっている。しかし、世界的な趨勢からみるとやや軽武装であるのは否めず、開発の比較的初期段階から武装強化型の乙型や丙型の開発が始まっている。は一式戦二型(キ43-II)などが装備していた従来の一〇〇式射撃照準器(光像式)に代わり、量産機では新開発の三式射撃照準器(光像式)を装備している。
防弾?防火装備については従来の陸軍戦闘機と同じく装備かつ強化することになり、全ての燃料に防漏を張った式とし、の風防前面に70mm厚の、操縦者座席の頭当てと操縦席後方に13mm厚のが装備されている。
下表の数値において量産型以外の飛行性能は初期試作機のもの。量産型は整備体制の問題から来るエンジンの不調などにより、カタログスペック通りの性能を出せない機体が多い。そのため最高速度624km/hが広く知られている。
四式戦闘機一型甲
四式戦闘機一型甲(量産型)
四式戦闘機一型乙
185.24 kg/m?
2,698kg+胴体12.7mm機関砲×2=>胴体20mm機関砲×2への換装分
正規全備重量
3,890kg+携行弾増加分
3,890kg+胴体12.7mm機関砲×2=>胴体20mm機関砲×2への換装分
(離昇1,825馬力)
推力式集合排気管
推力式単排気管
624km/h(高度5,000m)
640km/h(高度6,000m)
631km/h(高度6,120m)
624~655km/h(高度5,000~6,000m)
660km/h(高度6,000m)
5,000mまで6分26秒
5,000mまで約5分弱
2,500km(あり)/1,400km(正規)
翼内20mm機関砲()2門(携行弾数各120発)
胴体12.7mm機関砲()2門(携行弾数各250発)
翼内20mm機関砲(ホ5)2門(携行弾数各150発)
胴体12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各350発)
翼内20mm機関砲(ホ5)2門(携行弾数各150発)
胴体20mm機関砲(ホ5)2門
30kg~250kg爆弾2発
100機以上(推定/試作機のみ)
3,000機(推力式集合排気管装備の試作機含む)
500機(推定/試作機含む)
一型甲(キ84-I甲)
翼内にホ5:20mm機関砲2門、機首にホ103:12.7mm機関砲2門を装備した対戦闘機戦重視の基本型。生産されたほとんどの機体はこの型式。携行弾数はホ5が1門につき150発、ホ103は1門につき350発であった。
一型乙(キ84-I乙)
甲型の翼砲ホ5はそのままに機首砲ホ103をホ5に換装した対戦重視の武装強化型。製造番号3001以降がこの型とされるが、生産数は不明。試作機は試験飛行において660km/hを記録したとされる。
一型乙の機首砲ホ5はそのままに翼砲ホ5を?30mm機関砲に換装した武装強化型。試作のみ。
一型乙の操縦席後方にホ5をとして1門を追加した型。試作のみ。
機体の一部を木製化したもの。計画のみ。
搭載を追加装備した高高度型。計画のみ。
エンジンを高高度性能に優れたに換装した高高度戦闘機型。計画のみ。
キ84サ号(サ号機とも)
ハ45の水エタノール噴射を噴射に変更し、高高度における性能向上を図った型。上昇力が向上し、高度9,000mでの速度が50km/h増したといわれる。テスト中に終戦を迎えた。
1944年、の不足から、機体の大半を木製化したもの。重心の変化により機首が延長され、フラップは蝶型ではないスプリット式に変更された。17%もの重量増加のため上昇力?速力が低下。また組み立てに使うに問題があり、試験中に主翼下面外板が剥離?脱落するトラブルも発生した。に加えや、においても試作され、合計10機が完成した。訓練用としての使用も考えられたが、強度不足や構造が量産向きでない問題から生産は中止された。終戦後、アメリカ本国に1機が送られ調査された。のち1994年に早苗別川畔の地中から設計図が発見された。
アルミ合金の不足から、機体の大半を製化したもの。中島飛行機で試作一号機体が完成しエンジン未着装の状態で終戦を迎えた。やはり重量増加や工程増加による生産性の悪さに加え、鋼材も不足したため生産の見込みがたたず失敗作となった。
での転換生産型。発動機を信頼性の高い三菱(公称1,500馬力)に換装。プロペラも3翅とし、全長が重心調整のため20cm長くなり翼面荷重は制式機より25kg程度減少したこともあり、速度がやや低下したが、飛行特性も向上したといわれる。かつ、エンジン他での1,000kg重量減少はエンジン出力の約300Hp低下を十分補って余りあるものとなった。特に翼面荷重はキ84の185kg/mに対して160kg/mになったために旋回性能や、離着陸性能はむしろ向上したものと容易に推定することが出来る。試験飛行の結果は良好であったが、各種飛行特性や厳密な性能測定の直前の日に遭遇し、関係者の手により機体?設計図とも自らの手で処分された。
エンジンを大馬力の(離昇2,400馬力)に換装した性能向上型。主翼を1.5m?広げ高高度性能の向上を図った。設計中に終戦。キ84-Nとも称した。
岩橋譲三(陸軍航空兵大尉当時)
四式戦「疾風」を最初に装備した実戦部隊は日付編成の飛行第22戦隊で、垂直尾翼に描く部隊マークをとした同戦隊は四式戦の実戦テストも兼ねたものであり、使用機体はキ84増加試作機を、幹部空中勤務者?地上勤務者は主に航空審査部から精鋭を抽出となり戦隊長はキ84審査主任を務め当機を熟知していたテスト?パイロットであり、からのでもあった岩橋譲三陸軍少佐、整備隊長は同じくキ84班整備班長として長く携わっていた陸軍大尉の両名が任命された。
第22戦隊は当初フィリピン戦に投入される予定だったが、(旧)のP-51B/Cを始めとする多数のアメリカ軍新鋭機の登場により、旧式の一式戦や性能に限界のある二式単戦では苦戦を強いられていた中国戦線に、現地のの強い嘆願もあり一ヶ月間の期限付きとして投入された。のに進出した第22戦隊は現地軍の要請もあり、9月末までの短期間ながら僅か一個戦隊で連日中国全土に出撃し初陣を飾る。
こののち、フィリピン戦に備える為帰還する第22戦隊から残機を引き継いだ飛行第85戦隊ともP-51を相手に善戦し、「マスタング?キラー」「赤鼻のエース」として知られていた(第85戦隊)の活躍など、一時的にではあるが中国上空のを回復する活躍をしている。このように四式戦は中国戦線において実戦部隊の操縦者からも高い評価を受けた一方で、においてほぼ奇襲された状況、しかも圧倒的な数的劣勢下でのF6Fに立ち向かった第11戦隊の四式戦に対する評価は芳しくないものであった。
台湾沖航空戦とは比較にならないほど多数の四式戦部隊が編成?投入されたフィリピン戦()では、の初期にアメリカ陸軍のに苦戦したため、レイテ島防衛に当たっていたは日、「四式戦に大いなる信頼を置き居たるに困った事なり」と誌している。しかし、11月1、2日にはを制空しの上陸成功に貢献()、また一時的とはいえの制空権確保に成功。日にはのが操縦する四式戦が、アメリカ全軍第二位のエース(38機撃墜)である陸軍少佐のP-38Lを撃墜している。この代償として最終的には四式戦戦隊を含む多くの部隊が壊滅し多くの犠牲を払ったとは言え、ようやく四式戦の存在に気が付いたアメリカ軍も「速度と上昇力に優れ、運動性も高く、被弾にも強い」と評価している。
(ビルマ航空戦)ではが1944年9月から四式戦に機種改編。改編当初は故障が続出したものの、一式戦装備のと共に12月31日に撤退するを追尾するを中心とした連合軍の捕捉?攻撃(襲撃)に成功。のちの第64戦隊長である陸軍少佐はこの戦闘と四式戦に対し「(では20mm機関砲の)威力が大いに発揮された」「まずは、四式戦のビルマにおける初のお手柄」と述べている。
終戦直後の第85戦隊(手前、部隊マーク「片矢印」)および第22戦隊(左奥数機、部隊マーク「菊水紋」)の四式戦他。右列は所属不明の一式戦、右奥は
上述のように「量産型の四式戦は満足に飛べないものすら珍しくない」という説もあるが、飛行第47戦隊は同部隊整備指揮班長を務め整備の神様と謳われた刈谷正意大尉のもと、戦隊内に指揮小隊を設けそこで戦隊機の整備に関する全てを掌握し、厳密なる飛行時間の管理、点火プラグの早期交換、定期的ななど、徹底的かつ適切な整備を施すことで部隊の四式戦稼働率を常時87から100パーセントに保っている。ただ、このような整備方法は欧米諸国では一般的に行われていたので、ハ45自体がどうこうと言うよりもむしろ、それを扱う整備兵の教育や補給が立ち遅れていた側面が大きい。また本土より遙かに条件が劣悪なフィリピンにおける四式戦の稼動率は三式戦はおろか一式戦よりも高かったという記録も残されている。さらにのは再生潤滑油を使用せず、補給廠のアメリカ産輸入潤滑油を用い稼働率80から100パーセントを保ったという記録があり、これは潤滑油をアメリカ産の輸入に頼っていながら、事前の国産化を怠ったままアメリカとの開戦に突入し、戦前に輸入したストックに頼らざるを得ない状況に陥らせた、日本の戦時工業行政の致命的な失敗であった。
本土での運用時期における可動割合については前述の刈谷正意が第47戦隊においては前述の通り在隊機100%、航空廠修理機を含めて87%、その当時一般部隊においては良好なところで40%、悪いところで20?0%であると述べている。 また、この時期の陸軍調査の数字としては昭和20年5月20日調査の「航空総軍飛行機保有状況」があり、ここでは野戦部隊?防空部隊あわせて555機保有の四式戦のうち状態甲(自隊内にて整備完了。出撃可能機数は同数かこれ以下となる)の機体は235機となり割合としては42%となる。
沖縄戦に投入された特攻隊たる第60振武隊の四式戦一型甲(キ84-I甲)
その後も()やにも投入されたが、既に多くの熟練操縦者を失いさらに戦局自体もますます悪化した末期には、他の陸海軍戦闘機と同様に散発的な戦果に留まり、更に最末期には()に備え兵器は温存され迎撃も控えられていたために大きな戦果を挙げることは出来なかった。日にはからに飛来してきたに対し、機数に勝るの第22戦隊と第85戦隊の四式戦が迎撃したものの一方的な敗北を喫した。フィリピン戦末期(アメリカ軍の上陸後)や、沖縄戦においては、部隊マークとしてを描いた事で有名な第58振武隊他、四式戦で編成されたも出撃している。
また、では日にが侵攻したが()、8月12日と8月15日の2度にわたって第104戦隊の四式戦が、同じく満州に展開していたの二式複戦とともにソ連軍機甲部隊に対しによる攻撃を行ない、やなどの軍用車輌数十輌を破壊?炎上させる戦果を挙げている。
なお、に初期生産の2機が海軍の研究用として正式に譲渡された。陸海軍の機種統一を検討してとも言われるが[]詳細は不明。これらは終戦時まで残置しており、写真も残されている。
、における四式戦一型甲(キ84-I甲)。里帰り時は第11戦隊の部隊マーク「稲妻」に直される
フィリピンの戦いにおいてアメリカ軍に鹵獲され、性能テストに使用された元第11戦隊所属の四式戦が世界で唯一の現存機として、現在のに展示されている。この機体は戦後アメリカ軍より民間に放出されを経て飛行可能であったもので、宇都宮市の日本人実業家(元海軍下士官?戦闘機操縦者)が買収し、(昭和48年)のへの里帰り当時は華麗な飛行でファンの目を楽しませた。この後、四式戦は中島飛行機の後身であるの航空部門たる宇都宮製作所(当時はを開発生産)が隣接するに空輸され、当時の関係者らによる整備も行われつつ富士重工業によって飛行可能な良好な状態で保管されていた。
、で展示されている四式戦闘機一型甲
しかしながら、オーナーの死後はの嵐山美術館に売却され同地で展示される事となるが、劣悪な管理状況により飛行不能となった。本機を日本へ譲渡したアメリカの私設航空博物館のドン?ライキンスはこの状況を聞いて譲渡したことを深く悔いており、その後も復元を行ったマロニー博物館では、他の機体数機との交換で良いので還して欲しいとコメントしている。飛行不能となった要因については「ずさんな野外展示が行われ、元々機体から容易にはずせない部品を強引に取る盗難にあった」、「嵐山美術館閉館伴いに移転し、海岸そばでの展示のためと同じく機体の腐食やエンジンの悪化が進んだ」などである。嵐山美術館時代は容易に取れる部品に関しては初めからはずして展示されていたが前述のように盗難被害に遭った。「輸送のために機体をガスで切断した」といわれているが誤認であり、正規の方法で分解されてから輸送されている。知覧特攻平和会館展示の三式戦二型や、のなどの保存機(いずれも一度ガス切断されている)と混同されている可能性がある。
最終的に、四式戦を装備するが知覧陸軍飛行場に展開、また四式戦も一部が特攻に使用されていた関係から当時の知覧町がこれを取得、空調設備のある屋内展示の形で現在に至る。
第73戦隊は多数の四式戦部隊のうちのひとつとして同年5月に。以降は錬成や防空にあたり12月にはのためにフィリピンへ進出、?などともに隷下として従軍した
次号?第255号は9月6日公開の『聖断拝す 大東亜戦争終結 昭和二十年八月十四日』という敗戦を報道するものであった。
蝶形フラップは円弧の一部を切り落としてあり、一見そうは見えない。
逆説的だが軽量化される分だけ旋回性能も向上する。
本機の試験飛行を担当した吉沢鶴寿は、100オクタンガソリン、高度8000mの条件下で、試作品の「誉」では640km/h程度の速度が出たが、量産品の「誉」では580km/h程度しか出なかった、と証言している(『』1961年7月号「四式戦闘機『疾風』のすべて」、ただし『悲劇の発動機「誉」』p.206 - からの孫引き)。
関連での審査時に、中島側はエンジン不良の原因について「誉の出力が一番出ていない時期だった」と述べており、この頃、海軍でベンチテストした際の性能低下の結果とも一致する。
部隊編成準備自体は1943年秋より。
実戦テストを兼ねた最新鋭機による部隊編成、戦地派遣の前例としてはキ44(二式単戦)装備の(のち飛行第47戦隊)がある。
日、飛行場襲撃時に被弾、自爆し戦死。死後陸軍中佐。
若松中佐は機種改編時に今まで使用していた「鍾馗」とは違うこの「疾風」を「(二単に比べ)全てにおいて勝る」と高評価している。
当時の日本がアメリカ産の潤滑油に依存したのは、アメリカ?カリフォルニア油田で産出されるのはパラフィン基原油で、潤滑油の原料として向いているという事情もあった。一方で日本が占領した東南アジアの油田で産出されるのは、芳香族基原油で、潤滑油の原料には向いていなかった。
対象はであり、特攻関係および(満州方面:飛行第104戦隊など)は除くとされている
『疾風』と命名 陸の最新鋭戦闘機 、昭和20年4月11日
"JAPANESE AIRCRAFT Code Name & Designations" Robert C. Mikesh, Schiffer Military/Aviation History, 1993(フランク?マッコイの序文付)
井口修道「軍用機メカ?シリーズ7」中の「異色のテス?パイ“疾風”を語る」光人社
「知られざる軍用機開発」下巻 酣燈社 124-125頁
R. J.FRANCILLON"Japanese Aircraft of the Pacific War"(New Edition 1979,London,)p.236
文林堂『世界の傑作機No.19』、大日本絵画 『世界の駄っ作機3』他
田中和夫『幻の木製戦闘機キ106』北海道新聞社、2008年、10-17頁
大内建二『間に合わなかった軍用機』光人社、2004年、53頁
秋本実『日本の戦闘機 陸軍編』出版協同社、1961年、50頁
戦史叢書 41 P.342, P.356
宮辺英夫『加藤隼戦闘隊の最後』光人社、1986年、245項
刈谷正意『日本陸軍試作機物語』光人社、2007年、273頁
『陸軍航空の軍備と運用(3)大東亜戦争終戦まで』 〈〉1976年 412頁
防衛研修所戦史室編 『 41 捷号陸軍作戦(1) レイテ決戦』 、1970年
歴史群像『太平洋戦史シリーズ46 四式戦闘機 疾風』学習研究社、2004年、
軍用機メカ?シリーズ第7巻『疾風/九七重爆/二式大艇』光人社 1993年
『続?日本機傑作機物語』 酣燈社 1960年
『決戦機疾風 航空技術の戦い 知られざる最高傑作機メカ物語』光人社 (碇義朗 著)2007年
刈谷正意『日本陸軍試作機物語』 光人社 2007年
鈴木五郎 『第二次大戦ブックス64『疾風』』サンケイ新聞社出版局 1975年
鈴木五郎 『不滅の戦闘機 疾風 日本陸軍の最強戦闘機物語』光人社 2007年
『悲劇の発動機 誉』
渡辺洋二 『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』文春文庫 2002年
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